至高体験 元気をピ・ピ・ピ テレしず
高城剛さんが「マズローのピラミッド」について・・・
↓↓↓のように書かれていた。
マズローが提唱した人間の基本的欲求は、「生理的欲求」からはじまり、「安全の欲求」、「社会的欲求 / 所属と愛の欲求」、「承認の欲求」、「自己実現の欲求」と高まり、これを三角形の図で表したことから、「マズローのピラミッド」と呼ばれています。
「生理的欲求」
↓↓↓
「安全の欲求」
↓↓↓
「社会的欲求 / 所属と愛の欲求」
↓↓↓
「承認の欲求」
↓↓↓
「自己実現の欲求」
これら5つの欲求全てを満たした「自己実現者」には、
以下の15の特徴が見られます。
・現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
・自己、他者、自然に対する受容
・自発性、素朴さ、自然さ
・課題中心的
・プライバシーの欲求からの超越
・文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
・認識が絶えず新鮮である
・至高なものに触れる神秘的体験がある
・共同社会感情
・対人関係において心が広くて深い
・民主主義的な性格構造
・手段と目的、善悪の判断の区別
・哲学的で悪意のないユーモアセンス
・創造性
・文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越
です。
ここまでは、ご存知の方も多いと思いますが、実はマズローは、死ぬ間際に「自己実現欲求の上に自己超越欲求がある」と主張していたことは、あまり知られていません。
これが、今世紀にテクノロジーの手助けを借りながら、人類が到達できるのかどうか、が僕の興味なんです。
↓↓↓15の詳細↓↓↓
マズロー(1987)は、自己実現を果たした多くの歴史上の人物と当時存命中だったアインシュタインやその他の人物の事例研究をし、自己実現的人間の全体的特徴として、15の特性をあげている。
1.現実をより有効に知覚し、それとより快適な関係を保つこと
芸術や科学、社会政治的な問題の背後にある実体をすばやく、正確に読み取ることができる。願望・欲望・不安・恐怖・楽観主義・悲観主義などに基づいた予見をしない。新鮮・具体的・個別事例的・一般的・抽象的で類型化されたことを識別する能力がすぐれている。
未知なものにおびえたり、驚いたりすることがない。未知なものを受け入れ、気楽に接し、引かれる。あいまいなものや形をなさないものに耐え、好む。
2.受容(自己・他者・自然)
人間性のもろさ、罪深さ、弱さ、邪悪さを、ちょうど自然を自然のままに無条件に受け入れるのと同じように受け入れることができる。
現実をあるがままに見、曲解はしない。防衛、保護色、見せかけの態度がなく、他人のそのような不自然さを嫌う。
3.自発性、単純さ、自然さ
行動、思想、衝動などにおいて自発的である。行動の特徴は単純で、自然で、気取りや効果を狙った緊張がない。
4.課題中心的
自分たち自身以外の問題に強く心を集中させる。
自己中心的ではなく課題中心的。
哲学的、倫理的な基本的問題に関心があり、
広い準拠枠のなかで生きている。
木を見て森を見失うことがない。広く、普遍的で、世紀単位の価値の枠組みをもって仕事をする。
5.超越性─プライバシーの欲求
独りでいても、傷ついたり、不安になったりしない。
孤独やプライバシーを好む。
争いごとに対して超然としていることができる。
客観的で、集中力があり、問題や心配事があったり、重大な責任を負っている時でも、熟睡でき、食欲も乱されず、笑いを保つことができる。
このような超越性は、一般的な人たちからは、冷たさ、愛情の欠落、友情のなさ、敵意などに解釈される場合もある。
自分自身で決定し、自分自身で決断をし、行動を開始し、自分自身とその運命に責任感をもっている。
6.自律性─文化と環境からの独立・意思・能動的人間
比較的に物理的環境や社会的環境から独立している。欠乏動機ではなく成長動機によって動かされている。外部から得られる愛や安全などによる満足は必要とせず、自分自身の発展や成長のために、自分自身の可能性と潜在能力を頼みとする。
自己実現的人間にとって、他者が与えてくれる、名誉・地位・報酬・人気・名声・愛は、自己発展や内的成長ほど重要ではない。
7.認識が絶えず新鮮であること
人生の基本的なものごとを、何度も新鮮に、純真に、畏敬や喜び、驚きや恍惚感
などをもちながら認識し、味わうことができる。
8.神秘的経験─至高体験
自己実現的人間は、神秘的な経験をもっている。それは、地平線がはてしなく広がっている感じ、力強いと同時に無力である感じ、恍惚感と驚きと畏敬の感じ、時空間に身の置き所のなさであり、とてつもなく重要で価値のある何かが起こったという確信である。このような経験を至高体験という。
9.共同社会感情
人類一般に対して、時には怒ったり、いらだったり、嫌気がさしても、同一視や同情・愛情をもつ。人類を助けようと心から願っている。
10.対人関係
心が広く深い対人関係をもっている。他者にとけこむことができ、愛し、完全に同一視し、自我の境界を取り去ることができる。少数の人たちと、特別に深い結びつきをもっている。これは、自己実現的に非常に親密であるためには、かなりの時間を必要とするからである。
おおよそすべての人に対して、親切で忍耐強いが、偽善的でうぬぼれが強く、尊大で、自己誇張的な人に対しては手厳しい。
自己実現的人間には、何人かの賛美者、弟子、崇拝者がいるが、彼らの献身はやっかいで、苦悩を与え、不愉快であることが多い。
11.民主的性格構造
もっとも深遠な意味で民主的である。階級や教育制度、政治的信念、人種や皮膚の色などに関係なく、彼らにふさわしい性格の人とは誰とでも親しくできる。
自分の知らないことを教えてくれたり、自分がもっていない技術をもっている人たちを、心から尊敬し、自分は謙虚でありえる。
これらの民主的な感覚は、好みに識別力を欠き、ある人と他の人をよく比較しないで同等化することとは違う。
邪悪な行動に対しては、あくまでも闘うという傾向をもっている。
12.手段と目的の区別、善悪の区別
非常に倫理的で、はっきりとした道徳基準をもっていて、正しいことを行い、間違ったことはしない。
手段と目的を明確に区別でき、手段よりも目的の方にひきつけられる。他の人にとっては手段にすぎない経験や活動を目的とみなす。目的への到達と同じく、その過程そのものを楽しむことができる。
13.哲学的で悪意のないユーモアのセンス
自己実現的人間は、悪意のあるユーモア、優越感によるユーモア、権威に対抗するユーモアでは笑わない。彼らがユーモアとみなすものは、哲学的である。笑いよりは微笑を引きだすような、状況に何かを付け加えるというよりは状況に本質的な、計画的ではなく自然にあふれ出るような、しばしば繰り返すことができないような、思慮深く哲学的なユーモアが、彼らには多い。
14.創造性
特殊な創造性、独創性、発明の才をもっている。その創造性は、健康な子供の天真爛漫で普遍的な創造性と同類である。
15.文化に組み込まれることへの抵抗
自己実現的人間は、いろいろな方法で文化のなかでうまくやっているが、非常に深い意味で、文化に組み込まれることに抵抗し、内面的な超越を保っている。
重要ではなく、変えることができない、個人として主要な関心事ではない事柄は大部分受け入れるが、急速な変革が可能な時や決断や勇気が必要とされる時には、闘志を燃やす。
自らが所属する文化のものごとを、比較考察し、分析試験し、味わって、その善し悪しを、自分で決定する。
社会の規制ではなく、自らの規制に従っている。
マズローは、同時に自己実現的人間の欠点もあげている。つまり、彼らは、愚かで、無駄で、思慮に欠けたところもあるし、虚栄心や自尊心、自分自身の作品や、家族、友人、子どもを偏愛したり、かんしゃくを起こし、無慈悲になることもある。
また、精神を集中するあまりに、ぼんやりとしてユーモアを失ったり、日常の社会的丁寧さを忘れることもあるし、他の人たちには苦痛で不都合で、無礼で傷つけられやすい言動をとる時もある。親切すぎて失敗する場合もある。マズローは、完全なる人間は存在しない、という。
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相手はどの段階なのか?
自分のお客さんはどの段階の欲求を持っているんだろうか?
↓↓↓
稼ぐ系のノウハウを提供するなら「安全欲求」を持つ人たちに届く情報が必要だ。
美容、恋愛の情報は所属と愛の欲求の人が反応する。
優越感が得たい人もいる・・・
ターゲットが反応する言葉、大切!
下三段は外への欲求!!!
上二段は内的な欲求!心を満たしたい!
尊厳欲求=仲間に認められたい!!!
自己実現欲求=達成感を得る!とか成長したいとか・・・
承認・尊敬されたい(尊厳)→成長したい(自己実現)
自己超越=見返りをも求めない(無償の愛)自己が無い
6段階目の欲求!!!
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一度だってないかもしれない、至高体験の持てる力をすべて引き出す瞬間なんて
私が鬼門の部屋に住み、運気がガタ落ちとなり、散々な10代
を歩んだことは過去にも龍脈スパイラルオリハルコンの説明文にも記載したので
ここでは省くとしよう。
ここにそれについて記載しております。
↓
そう・・・私が初めて新築の自分の部屋ができたのは小学4年生の頃であった。
しかし、そこから人生は狂い始めた。
「なぜだ・・?」
私は悩んだ。
様々な祈祷師、気学師を訪ねてわかったことがそこが鬼門であったのだ。
それから祈祷師の霊符、御札など風水アイテムも沢山使ってきたが、
どれも期待するほどの効果もなく、
私は自分なりにずっと勉強してきた。
小学生高学年から大人になるまでずっと色々調べたり、
本を読んだり、風水改善アイテムも沢山試してきた。
そこから私が開発したものが龍脈スパイラルであった。
文字の如く龍脈を発生させる波動ツールである。
龍脈とは風水で気を発する土地であり龍穴に住むと運気は一気に上昇し、
全てが上手くいくと言われている。
そして土地をイヤシロチ化することにより、不運から遠ざけて健康、繁栄、
運気上昇が期待される。
元々地下に通っている龍脈ラインに偶然家を建てた人は運がいいだろう。
白龍のパワーの恩恵が受けられる。
逆にケガレチと言われる運気が悪くなる土地、気を吸い取ってしまう土地に家を建てたり
住んだりするともう最悪だろう・・。
私の知り合いでも危ないぐらいのケガレチに住んでた人がいたけど、
その土地に足を踏み入れただけで私は眩暈がして周りが歪んで見えた。
もう波動がグチャグチャなのである。
当然のことながらその一族は滅びてしまった・・(←ちょっと古い言い方だけどね)
前置きは長くなったが、そんなこんなで最初に開発した龍脈スパイラルは
現在オリハルコンと合わせてるものとは違い、やや大柄であった。
数個しか販売してなかったけど限定だったのですぐに完売してしまった。
だが、それだけではまだ改良が必要だと思って作られたのが
現在普及しているヴァージョンである。
これが龍脈スパイラルオリハルコン版の基本となるものである。
後半はもっと先端が長くやや細長いタイプのものを作製している。
上の画像は青と赤の龍脈スパイラルを内蔵している。
青は二種類あって水色っぽいタイプと深く濃いタイプである。
オリハルコンツールは基本は10色として出しているが、
それはチャクラに反応したり、色独自の波長、波動に影響する目的で使い分けている。
それと同時使用する時に相性がいいのを少し紹介しよう。
赤と青は組み合わせがいいので同時使用すると相乗効果も期待できる。
赤、青、緑の光の三原色についてはこちらに詳しく書かれてるので参考にしていただきたい。
まず赤龍脈スパイラルはやはりパワーが強い。パワーだけならおそらく一番強いだろう。
しかし、性格的に短気だったりキレやすい人、ヒステリーを起こしやすい人は持たない方が
いいだろう。
主には第一チャクラ(ムーラダーラ)を刺激してグラウディングを行い、弱気を強気にする
働きもある。
したがって、落ち込んでいたり、性格的におとなし過ぎたり、無気力な人、
どうも元気が出ない人などにはお勧めである。
陰から陽に切り替えたい人にもお勧めである。
それとは逆に青龍脈スパイラルは精神安定、落ち着き、瞑想、魂レベルの向上に役立つだろう。
チャクラでは第五チャクラ(ヴィシュッダ)に反応する。
赤龍脈スパイラルとは違い、鎮静の働きもあるので性格の激しい人が使用すると
それが和らぐのでお勧めである。逆に落ち込みやすい人や弱気な人はあまりお勧めできない。
この赤と青を両方使用することにより、陰陽のバランスが取れてゼロに近づけるので
所謂中性となる。
設置するなら赤は朱雀の南の方角、
青は青龍の東の方角が良い。
左の物が改良版である。優劣は付けられないがどちらも
高波動を放っている。
上の画像は新タイプと旧タイプの龍脈スパイラルである。
新タイプはやや細長スタイルとなっている。先端がやや長いので波動を放射する時には
やや強めとなっている。
旧タイプは地にどっしりと構えているので安定感はある。
ちなみに組み合わせは青龍脈スパイラルでも水色タイ
プとオレンジ龍脈スパイラル
がベターである。
オレンジ龍脈スパイラルは第二チャクラ(スバディスターナ)に反応する。
肉体的な活性化、生命力の強化、感情の豊かさなどにも効果を発揮する。
そういう意味から復活などの意味合いで太陽神ラーと称している。
「なんのために生きてるんだ?」
「生きててもつまらない・・」
と言う人は生きる喜びのようなヒントが与えられるだろう。
これも同時使用で精神的なバランス効果も期待できる。
病気になりにくくなるという説もある。
金龍脈スパイラルと銀龍脈スパイラルのコンビ。
上の画像は金龍脈スパイラルと銀龍脈スパイラルで最も相性がいいコンビである。
金色は金龍のイメージもあるが、梵天ブラフマーと称している。
それはブラフマーのオーラが黄金であるからそれをイメージしている。
これはチャクラと言うよりオーラである。
金色は金運や財運を引き寄せる色として有名だが、瞑想の時に黄金の光のイメージを
するとやはり金運系を上昇させると言う。
そして才能を開花し、独創性をより強める働きもある。
銀色は金と同じく銀龍(白金龍)のイメージがあるが、アートマン(内なる自分)のオーラが
銀色ということでそれをイメージしている。
内なる自分、内なる神こそが大元の神と繋がり同一であるという説がある。
この宇宙のあらゆる生命体は全て神の分霊(わけみたま)であり己自身である。
高度な瞑想をする時に使用するといいだろう。
純粋な魂へと変化したい人にお勧めしたい。
金と銀の龍脈スパイラルを同時使用することで無限大のメビウスの輪が見えたという人もいる。
そう、メビウスの輪は「8」の字であり、8という数字は「無限の象徴」とも言われている。
無限大の可能性・・。
ちなみに龍も8という数字と大きく関係があるので龍が好きな人にも
お勧めしたい。
紫龍脈スパイラル。霊性豊かな高貴な色である。
上の画像は紫龍脈スパイラルである。
これは阿弥陀如来の乗り物である紫雲をイメージして
そう称している。
私が極楽浄土と繋がっていると言われる場所へ行くと西の彼方に
紫の色をした龍雲がよく現れる。
この形からすれば紫龍でもあるので納得できる。
この紫色は第六チャクラ(アジナー)に反応する。所謂第三の眼である。
効能としては想像力を豊かにしてそれを現実化することをサポートする。
そして霊性を豊かにし、発想やひらめきなどにも効果を発揮する。
組み合わせについては特に気にしなくていいのだが、複数使い分けることもベターであろう。
私個人のお勧めは紫色のパワーストーン(特にアメジストやスギライト)を身に付けていると
相乗効果をもたらす。
瞑想の際に第三の眼(眉間あたり)を意識すると効果的である。
この紫色はあらゆるあらゆる可能性を秘めているので、
色々と自由に応用するのもベターである。
緑龍脈スパイラルオリハルコン。神様の色である。
上の画像は緑龍脈スパイラルである。
これも青と同様で若干色に違いがあり、ライトグリーンタイプと
濃い深い緑の2タイプがある。
緑色は神様の色とも言われ、私個人ではお気に入りである。
しかも結構人気があり、品薄になることもしばしば
第四チャクラ(アナハタ)に反応し、癒しの波動(ヒーリング効果)を放つと共に、許し、愛情、思いやり、ハートのキャパシティーを
増加などに役立つ。
心身のバランスを取り、常に安定した状態を保ちたい人にお勧めだ。
これも個人的な意見だが緑色のパワーストーン(エメラルド、アベンチュリン、翡翠など)を身に付けて
使用すると相乗効果がもたらされる。
今許せない人がいる。本当は自分も他人も同じだということを気付きたい方へ。
これも特に組み合わせにこだわりはないが、使い分けする方法もいいだろう。
設置の場合は玄武の北が良い。北は黒でもいいのだが、
現在普及してないので微妙。
黄龍脈スパイラルオリハルコンと桃龍脈スパイラルオリハルコン。
妙にマッチするコンビネーション。
上の画像は黄龍脈スパイラルと桃龍脈スパイラルである。
まず黄色であるが、これは第三チャクラ(ソーラープレクサス)に反応する。
黄色は風水において金運や財運関係に効果的なので金色と少々似た効果もあるのだが、
この黄色につい
は七福神の布袋さんのイメージがでてきたのでそう称している。
財布やカーテンなど黄色にすると運が良くなるとか金運が上がると言われるが、
その他にも自身をつけたり笑いを呼び込んだり色々な効果が期待できる。
桃色についてはなぜか第一チャクラに反応した。
これは私の体験であるが、クンダリーニの上昇に有効だと考えられる。
普通はムーラダーラチャクラ(第一チャクラ)は赤色が一般的だが、
尾骶骨あたりにこの桃色(ピンク)龍脈スパイラルを設置してみると
エネルギーがスムーズに背筋を通って上昇していくことがわかった。
俗にいう性エネルギーというやつの活性化に優れていると判断した。
なかなかの優れものである。
名称はガヤトリーとしているが、これはインドの女神でもあるが、
七福神の弁財天とも同一視されている。
ガヤトリーマントラはとても強力で運気を上げてくれるので
この桃龍脈スパイラルオリハルコンと併用して唱えるのもベターだ。
桃色(ピンク)は女性なら子宮にも反応するようなので、そこを活性化すると
女性らしさ、魅力を増大させ所謂女子力アップに繋がるだろう。
さて、この黄色と桃色の龍脈スパイラルオリハルコンの組み合わせだが、
これらを同時使用することによって、強力に邪気払いもできるのである。
例えば他者からの念、邪気、嫉妬などのネガティブなエネルギーから守ってもらえる。
それとすでにそれらのマイナスエネルギーが体に入っていた場合は除去する働きもある。
白龍脈スパイラルオリハルコン。純粋無垢ピュアな白である。
上の画像は白龍脈スパイラルである。
これは白蛇(白龍)様をイメージして作られた。
白蛇様は神様の使いとされ、滅多に見ることができず、見た者は幸運をもたらすとも
言われている。私はそういう願いも込めて作製している。
白色は第七チャクラ(サハスララ)に反応する。
これは未知なる力との繋がり、霊性を高め、最も純粋な魂へ近づける。
白色は純粋無垢で最もピュアな色であり、光の三原色から発する全ての光を
重ねると発生する最も強力で素晴らしいパワーがあるとされている。
このツールを使用して至高体験するために瞑想に使用している人もいる。
イメージとしては白い光を全身から放射する。
そのイメージが強くできるようになれば自分が一体何者なのか
悟れるかもしれない・・・。
設置の場合は西がベター。このオリハルコンは白虎というわけではないが
効果は十分期待できる。
黒龍脈スパイラルである。これは現在オリハルコン版へと仕上がっているが
封印している。
この黒龍脈スパイラルは現在形としてはオリハルコン版に仕上がっているが、
封印している。
イメージとしては暗黒の魔神マハーカーラでシヴァ神でありカーリー神である。
日本では七福神の大黒様と同一視されている。
黒はある意味未知の領域であり、これはまだ私自身が使用してないので
表には出せない。
もしコンビネーションを組むなら白龍脈スパイラルだろう。
だが、この黒龍脈スパイラルは持ち主次第で正にも邪にもなるので慎重にしなければ
ならない。
内部にはここでは公開できないが陰と陽のバランスを保つためにある鉱物を2種
加えている。
なので暴走することはまずないだろうけど、今はまだ時期がきてないので
ひとまず波動増幅装置にて寝かせてある。
オリハルコン版になる前の龍脈スパイラル。
すべてはここから始まった・・・。
上の画像は私が一番最初に開発したプロトタイプである。
大きさは確か縦5センチぐらいはあったかなぁ・・・。ちょっとうろ覚えであるが、
現在出しているオリハルコン版のようにコンパクトではなかった。
しかし、オリハルコンを加えることによりパワーは強化され、さらに
他の物質も組み込むことにより、さらに洗練されたエネルギーへと進化した。
私が作製しているインドヒマラヤ直伝の祈祷(プラス独自のホーリープージャ)実施および波動増幅装置にて超強力な波動を封入している超波動ブレスレットや宇宙エネルギーツール(オリハルコン)および波動入魂した霊符ならこちら!
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本当に洒落にならない至高体験
前回のブログの最後に、「次回は私の信じる「さとりをひらく」ためのもっとも「やさしい方法」について書いてみたいと思います。」と書きました。今日はその続きです。
それが五井昌久先生の「世界平和の祈り」で、先生の世界平和の祈り、消えていく姿の教えについては既に以前のブログで書きました。
中村天風師がインドでの瞑想経験から「霊性心(さとり)は容易に出てくる、雑念や妄念を払いさえすれば自然に出てくるんだ」とおっしゃったように、またエックハルトトールが「迷走、暴走する思考をストップする」ことで覚醒を経験したように、「思考を止める」ということが「さとり」「霊性心開発」の入口であるのは疑いがありません。仏教のいう「空」の境地や「空観」も頭の中を去来する様々な思考を止めることで自身の本性である仏性を覚醒させるという事でしょう。
五井先生の想念停止の修業
この「思考を止める」という修行を通じて、ご自身の神性と一体になられたのが五井昌久先生です。昨年は五井先生のご生誕100周年でした。それを記念して出版されたのが身近で先生に仕えられた高橋英雄さんが書かれた「五井せんせい わが師と歩み来たりし道」です。
この本の中で五井先生の想念停止の修業を紹介され、「五井先生が言語に絶する霊修行にて自我の想念を滅却したのち直霊と一体となったのは昭和二十四年、六月の終わりごろと聞いている。」と書いていらっしゃいます。
直霊とは大元の霊、いわば大霊で、先生が神我一体となられたこの体験がどのようなものだったかはご自身の自叙伝「天と地をつなぐもの」に詳しく紹介されています。
高橋さんも本の中でこの自叙伝の一節を紹介されています。
「私の想念停止(空観)はついに成功したのであった。私はものを想わなくなった。しかし必要があれば語り、用に応じては手足を動かし、体を働かせることもできた。私という肉体的個人はもはやこの世に存在しなくなっていた。私の過去世からの想念のすべてを天に還してしまったのである。天と地の間にただすっきり澄み徹った私がいた。久しく停止していた私の個我がすでに天の本体と合体していることを直感した。」
五井先生が創設された白光真宏会のホームページに自叙伝の一部も公開されています。
興味のある方は、以下のリンクをご覧ください。
高橋さんの本では五井先生と釈迦、イエスキリスト、老子との合体、合気道の開祖の植芝盛平先生との交流などのエピソードとともに日常の五井先生の人間的な一面も数多く紹介されています。この本は五井先生の事をご存じない方が五井先生に触れる絶好の書ですから是非お読みになることをお勧めします。
さて、今回のブログで改めて五井先生について書くのは、冒頭の天風師のインドでの修行による「さとり」やエックハルトトールの覚醒体験を凡夫、凡人が容易に実践できる方法を紹介したいからです。
先の五井先生の自叙伝「天と地をつなぐもの」や最初のご著作の「神と人間」は五井先生のご著作の中の重要なものですが、先生のご生誕七十周年記念として新装丁で出版された「老子講義」も大変重要なご著作です。
そこで、これまで書いてきた「霊性心開発(さとり)の方法」の締めくくりとして、五井先生の老子講義から、「さとり」の為のヒントをご紹介したいと思います。
無為にして為す
老子の教えのエッセンスは「無為にして為す」です。無為とは判りやすく言えば「自然体」ということであり、難しく言えば「空の境地」という事です。
即ち、「無為にして為す」とは「あれこれ考えず、妄念、雑念を払った状態で居る(行う)」という事でしょう。これについて五井先生は老子講義、第三十四講で「無為」についてこのように講じていらっしゃいます。
「無為とは一言にして申しますと、為にしない、ということなのです。 何をしよう、かにをしょう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。そう致しますと、無為を為すとは一体どんなことをするのかという疑間が当然起こってまいります。頭脳で考えないで一 体何ができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。」
五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念について第二十七講でこうおっしゃっています。
「人間というものは不思議なもので、思わなくともよいようなことが次から次へと頭脳を駆け巡り、一体こんな想念は、頭脳の中にどんな風に潜んでいたのかなあ、などと思ったりするものです。頭脳を駆け巡る想念というものほど、あてにならぬものはありません。人間を立派にするというより、人間を混乱させる要素のほうがよけいふくまれているのが、頭脳を駆け巡る想念波動です。それは、心配、不信感、嫌悪、不安定、等々、頭脳を駈け巡る想念は、得てして、神のみ心を離れたものが多いのです。」
ここで五井先生は端的に「神」とおっしゃっていますが、これを老子風に言えば「道」=宇宙の根本原理、天風師風に言えば「宇宙霊」、エックハルトトール流では「大いなる存在」と言い換えることが出来るのは言うまでもありません。
また第ニ講でもこう述べられています。
「人間の運命を複雑にしたり、乱したりするものは、人間各自の思いに他なりません。不幸も悲哀も悲しみも怒りも妬みも、それはすべて人間の思いの波動がそれを引き起こすのであって、人間自体に不幸や悲哀があるのではないのです。熟睡している時に、その人に何の不幸観や悲哀感がありましょう。睡っている時は、その人の肉体はそこに存在しながらも、その人の想念は、その人の肉体を離れているので、その人に何らの感情も起こらないからなのであります。とすると想念さえ、悲哀や不幸の波の中にいなければ、人間には悲哀も不幸もないということになるのです。そこで、仏教では、そうした想念をすべて無くしてしまう空の境地になる練習を主として行わせたのであります。」
老子の言葉を解説されながら、五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念が人間本来の奥深く存在する叡智へのアクセスを妨げているとして前述の「無為」の説明に続けてこう述べられています。
「頭脳で考えないで一体何ができるのであろう、普通の
はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を唯一無二の人間と想っています。しかし聖人は、人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、生命の現われる一つの場所であることを知っております。それは頭で知っているのではなく、事実として承知しているのです。そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、無限の段階において働きつづけているのであることも知っているのであります。ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを経巡っているような想念や知識をいくら振り迥していても、大宇宙の法則に乗り切ることはできない、大宇宙の法則に乗って生きてゆかなければ、この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけないと自らの体験で昔からの聖者たちは知っていたのです。」
ここで五井先生は「肉体は道具であり、場所であり、生命の流れは奥深いところから無限の段階で働き続けている」とおっしゃっています。
肉体だけが人間ではない
このことを第二十三講ではこのように語られています。
「人間というものは、実に不可思議なる存在でありまして、ここに肉体として存在しており、種々と想い巡らしているこの人間だけが全存在ではありません。全存在どころか、ほんの先端の現れでしかありません。凡夫というものは、この肉体人間だけを人間の全存在だと思いこんでいるのですから、眼先の事柄だけしか判りようがありません。
ところが真実の人間というものは、 この肉体より数等倍も秀れた機能をもつ体が幾層にも奥に奥に存在しておりまして、奥にゆくにつれて、徴妙この上ないものになってくるのであります。そしてその一番奥の存在が宇宙神のみ心の中心にある直霊(なおび)ということになるので、この直霊が神そのものということになるのであります。
ですから人間心の一番奥深いところは神そのものとなるのです。そしてそうした神そのものの働き場所を神界というのであり、次第に霊界、幽界、肉体界と、その働きのひびき(波動)が遅鈍になってくるのであります。」
第二十一講でも肉体頭脳の思慮分別が人間のレベルを低くしてしまっていると、このように述べられています。
「肉体人間というものは、只単なる先端の現れであって、人そのものではないということなのです。人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。
ですから、肉体身として現われている、一番粗い、波動の現れ、一番速度の遅い渡動の現れだけを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、スピードの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができる筈がありません。小さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。それは丁度、世界というものの全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧みないでいるとしたら、その人の智能程度は非常に低いものであることはあたりまえのことです。」
人間には肉体だけでなく、大きく分けても幽体(界)、霊体(界)、更に神体(界)があるという認識は信じられない人もいるでしょうが、現在の物理学では十一次元の多重次元の存在が認められています。むしろ五井先生がおっしゃっているような世界観、人間観の一部を科学が探求し始めていると考えても良いのではないでしょうか。
この人間存在の真実を「さとり」「直感」で知りえた聖人、賢者にとっては肉体身だけが人間だと思っている人は未開人に見えると、五井先生は上の講義にこう続けていらっしゃいます。
「人というものの全体を知っている真人や聖賢の眼からみますと、人というものが肉体身だけの者だと思っているような人々の在り方をみていると、丁度そうした未開人の生活をみているようなものにうつるのです。真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。」
よって、第三十四講で、過去の聖人、賢者が肉体身だけが人間であるとするものに、本来の人間の姿を知らしめようとして、「そこで、老子は無為と説き、釈尊は空と説き、イエスは神のみ心のごとく、といって全託を説いていたのであります。 無為を為し、空になり、全託の境地になりますと、肉体頭脳と奥深い大宇宙の根源の心、つまり宇宙神のみ心とが一つにすっきりとながりまして、宇宙神の智慧や能力が、そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。」と、大宇宙の根源の心、無限の叡智から、その力を智慧を引き出すための方法である無為、空、全託をお示しになったのだ、と五井先生はおっしゃっています。
このことを第二十一講では更にこのように述べられています。
「古来の聖賢はみな、肉体智を捨てよ、空の心になれ、といい、老子は無為の道を根本の教として説いているのであります。ところが人間は、頭脳で考えないでどうして行動ができようか、ということにひっかかってしまうのです。それは無理もありません。 肉体身の頭脳の他に考えの、湧いてくるところなどありはしないと思い込んでいるからなのです。
しかし 私がいつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉
身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
世界平和の祈りの意味
そして微妙な世界から最も素晴らしい知恵を引き出すための一番の方法をこう教えて下さっています。
「この智慧を一 番奥深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想念を一度全部投入してしまうことがよいのであります。そしてその智慧も世界人類の完全平和に役立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものずばりの唱え言が適当なのであります。言は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中からでてきた智慧であり行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのであります。老子の道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。」
老子の「無為」とぴったり一つになり、仏教でいえば「空の境地」にいたる方法が世界平和の祈りである、ということですが、同じ第二十一講の前文では、こう述べられています。
「人間の行為というものは、この肉体頭脳智で考えているうちは、どこかに抜けた、宇宙神、大生命のみ心から外れた行為となってしまうことが多いのです。ですから、各自の集団が、自分達の思想行為こそ、社会を善くし、世界を安定させる、と各自が想って、その活動をしているのですが、その各自の行動が、お互いにぶっかり合ってしまって、宇宙神のみ心の根本的な在り方である大調和を乱す争い事になってしまうのであります。そこで老子は声を大にして、無為にして為せ、無為にして治めよ、というのであります。 肉体の頭脳智に頼っている以上は、無為にはなり得ません。無為になるためには一度肉体頭脳智を何処かに無くさなければなりません。私はその方法を世界平和の祈りをもってしなさい、というのです。」
第二十三講でも、肉体頭脳を駆け巡る想念を「世界平和の祈り」に投げ入れることが凡人を容易に聖人にする道である、としてこう述べられています。
「人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。」(中略)
「肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。」
このように、五井先生の世界平和の祈りは普通の人(凡夫、凡人)が特別な修行なし、日常生活のまま、老子の「無為」、釈迦の「空」、イエスの「全託」に至る容易な方法なのである、と繰り返してお示しになっています。
また第八講でもう少し判りやすくこうもおっしゃっています。
一度に到底そのよう(※霊性心に基づいた生き方)になれる筈のものではないのですから、ひとまず、生命そのままのひびきを、本心(※霊性心)と致しまして、本心そのままの生き方をするのには、どうしても、頭脳を去来する想念が邪魔になります。そこで、頭脳を去来する想念のすべてを消えてゆく姿として、宇宙神のみ心の中にその瞬間瞬間に祈り言を通して入れてしまう練習をすることにするのです。
明目の仕事のこと、これからの計画のこと等々、すべて一度は宇宙神のみ心の中に入れきることにして、入れきった後で、今度は行為として現われた場合には、その行為をすればよい、ということにするのです。それを私は、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という祈り言に結びつけて説いているのであります。何や可と想いわずらう想念はすべて消えてゆく姿と思うと、心が静かになって、生命のひびきがすこやかになるのです。そうして遂には老子の説く無為の生き方のできる人間になってくるのであります。(※私の注記補足)
以前のブログ「霊性心開発の方法」でも全託や消えていく姿について少し違う角度から論じていますので、まだお読みでなければ、こちらも一読ください。
世界平和の祈りはエレベーター
先に紹介した第ニ十七講に続けて五井先生はこのようにおっしゃっています。
「これ(※世界平和の祈り)は無為にして為す、という老子の根本思想の世界に、祈り言をもって、昇りきってしまう方法なのであります。現代の人たちには、玄徳の心といっても、無為といっても、空といっても、その心の状態の素晴しさはわかっても、自分自身では、とてもとても達し得ない境地だと、はじめからその境地に昇ろうとする意志がないのです。ですから、あまりそうしたかけ離れた境地になることを、はじめからすすめたとて、とても無理なことなので、私はそうした素晴しい境地を、一応、老子や釈尊やイエスの言葉で示しておいて、そういう境地になれば素晴しいのだ、あなたも人類も共に本心のままの生き方のできるのは、一人でも多くの人が一日も早く、そうした境地になることなのだ、だがしかし、そういう境地には一朝一夕でとてもとてもなれるものではない。だから私が世界平和の祈りという、エレベーターをここに用意しておいたから、ひとまずこのエレベーターにお乗りなさい。あなたの知らぬ間に、高い境地に昇ってしまいますよ。という風に世界平和の祈りをすすめているわけなのです。」
ここでお示しに
っているように「世界平和の祈り」はちょうどエレベーターのようなものです。老子の無為、仏教の空は凡夫、凡人にとって、長い階段を一歩一歩上っていくような大変な修行です。
これに対して、世界平和の祈りは、難しい修行なしに高い境地に上っていく「エレベーターのような易行道」です。
これは私の実感でもあります。確かに世界平和の祈りによって自身の霊性の奥深くへのアクセス、霊性開発が可能になりました。
だから、多くの人にこの世界平和の祈りを行って頂きたいのです。それはこの平和の祈りが現世の様々な悩み、苦しみの根源からの解決法であり、最も根源からの創造性開発法と信ずるからです。
世界平和の祈り
(2018年6月追記 このブログで私は「霊性心開発」をテーマに一連の記事を書きつないできました。
これまでも繰り返し述べたように、霊性心開発とは「宇宙本体と繋がり、そこから本来人間が持っている内なる叡智、エネルギーを実生活に引き出す」ことを意味します。そしてその方法が無為であり、無念無想、空観です。
この無為、無念無想、空観について書いた最初の記事は下の中村天風師のインドでの悟りで、その中で天風師と師匠のカリアッパ先生とのやり取りを紹介しています。
天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り
カリアッパ先生は無念無想を体験した天風師にこう言われました。
「たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」
この言葉の意味は
「無念無想になれば、そこに人間が本来持っている内なるエネルギーが泉のごとく湧き出すんだ。日頃は雑念、妄念の類がその出口を塞いでいるから出ないんだ。」
ということです。
中村天風師はこの体験を紹介されて、このように述べられています。
「人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。
とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。
ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。」
ここで天風師が述べられたのが、老子の言う「無為」の生き方ですが、私は「世界平和の祈り」で、天風師がおっしゃっているトランス状態に容易に入り、その先の霊性境地に自然に至ることが出来るということを体感しました。
天風師のおっしゃる人間と神、造物主を結びつけるスイッチは私にとって世界平和の祈りだったのです。
このことを念頭におき、上の記事や下の関連記事をお読み頂ければ幸いです。追記 終わり)
五井先生のご講話
さて、五井先生のご講話が沢山YouTubeに上げられています。その中から今回のブログに関係が深いご講話を2つ紹介させて頂きます。興味を持たれた方は、これらを一度お聴きください。
以下はご自身の教えの概略について語っていらっしゃる10分程度の講話です。
また以下は今回のブログのテーマである無為、空についての38分のご講話です。
今回の記事が読んでくださ
皆さんのお役に立てば幸いです。
関連記事
霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
参考記事
世界平和の祈りの行じ方
天風師が説く「5つの心」① 霊性心とは何か
天風師が説く「5つの心」② 霊性心とは何か
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」② 甲田光雄先生と舩井幸雄先生、そして世界平和の祈り
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法
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