至高体験あしたのもと
今回のブログは、「病や不幸とどう向き合えばよいのか」という以前のブログを読んで下さる方が少なからずいらっしゃるので、同じテーマの続編として、舩井幸雄先生が創刊された月刊紙に3年ほど前に寄稿した文章を再構成し転載するものです。
入社した会社の創業者に教えてもらった「西式甲田療法」
私が西式甲田療法に出会ったのは新卒で入社した会社でのことでした。当時まだ中小企業程度の規模でしたが、今では「オートバックス」として良く知られた会社になっています。その創業者である住野敏郎さんが熱心な西式健康法の信奉者だったのです。住野さんの経営法には際立った独創性がありました。この独創性が大阪の小さな会社を後に世界一の規模まで押し上げた原動力でしたが、私は住野さんの身近にあって、その歴史を文字通り体験しました。
その独創性を象徴するのが、住野さん自らが定めた「経営の三本柱」です。柱は一本でも、二本でも安定しません。三本あって初めて安定するという意味を込めて、①SMI、②西式健康法、③フランチャイズシステムの三つの柱が住野さんによって定められました。
それぞれ簡単に説明します。先ず「SMI」ですが、これはアメリカのポールJ.マイヤーさんが始めた成功実現法です。日本的に言うならば「念ずれば花開く」、夢や願望をビジョン化、信念化することで、実現せしめるメソッド(方法)を体系化したものです。
当時の会社の社是は「願望実現」で、住野さんは「願望実現」の言葉とともに、当時世界一の小売業であった企業の本社ビルの写真(当時世界一高いビルでもありました)を常に目に触れるところに置き、瞬時も「世界一になる」というビジョンから心を離さないように心掛け、それを信念化しました。そして社員にもビジョンによる目標設定の大切さを常に力説されていました。後に世界一になったこの会社の大成功はこの住野さんのビジョン(視覚化)によって強化された信念の力によってもたらされたものだ、というのが私の実感です。
「想いが実現する」「信念が現実化する」というのは一種の宇宙法則で、このブログでも中村天風師の教えなどを通じてこのことに触れてきました。以下はそのことについて書いたブログです。
「引き寄せの法則」とは何か ①―「願望実現の経営」住野敏郎さんから学んだこと
舩井先生、甲田先生、西式健康法との出会い
そして「西式健康法」です。住野さんは若いころから胃腸に疾患があり、悩んでいらしたようです。またご子息が病弱であったことも悩みの種でした。そんな折、ある取引先から西式健康法の創始者、西勝造先生を紹介されたことから、西式健康法の考え方に深く影響を受けるようになりました。
当時、西先生のお弟子さんの中でも特に注目されていたのが甲田光雄先生で、甲田先生が大阪八尾で開業されていることもあり、住野さんは甲田先生を深く信頼、師事するようになりました。冒頭「西式甲田療法」と書いたのは西勝三先生が開発した西式健康法に独自の工夫を加えられて完成されたのが甲田先生であったからです。
西先生(左)と住野さん(昭和三十年代と思われます)
前述のように住野さんの経営は独創的なものでしたが、入社したての私の眼にはかなり奇異に映りました。熱心に勧められる(というよりやや強制気味の)SMIもそうでしたが、西式健康法もおよそ現代医学の常識とは反対の考え方が多く、それを熱心に社員だけでなく、お客様にまで勧める創業者に口にこそ出さないまでも「ついていけないな」、「変な会社だな」と感じている社員や関係者が少なからずいたように思います。
三本目の柱「フランチャイズシステム」は単なる契約による「看板貸し」のフランチャイズシステムではありませんでした。一言でいえば、その核心は「運命共同体」「思想共同体」であってモノの見方や考え方を同じくする同志的結合を意味していました。
よって創業者にとっては西式健康法は単なる「健康法」ではありませんでした。西先生や甲田先生と身近に接し、驚くような治療実績を目の当たりにしてきた住野さんには、「SMI、ビジョンによる願望実現」と共に、西式健康法の独創性も自身の「モノの見方、考え方」の中核を成すものになっていました。西先生や甲田先生は、SMIのポールJ.マイヤー同様にモノの見方、考え方を教えてくれた恩人でもあったのです。
そうであるが故に、会議やお客様も集めた大会などに甲田先生や甲田先生のお弟子をお招きし、講演をお願いすることが度々ありました。
しかし、現代医学の常識とは相いれない西式甲田療法への理解がなかなか広がらないことから、住野さんは創業の地の会社施設を改装、「健康センター」を開設し、そこで西式甲田療法を学び、体験する為の「健康センター」を開設、一週間の体験、学習コースを始めます。私が西式甲田療法への認識を深めたのも、このコースに参加したことがきっかけでした。
会社の全国大会で講演する甲田先生
私は当時まだ一若手社員であったのですが、既に甲田先生の知遇を得るようになっていました。まだ若かった私が甲田先生と親しくさせていただくきっかけになったのが舩井先生でした。
当時毎月開催されていた舩井先生主催の月例経営勉強会に参加していた私は、毎回「目からうろこが落ちるような」体験をしていました。舩井先生の講話に深く感銘を受けた私は少しでも内容を社内に周知しようと毎回一生懸命受講レポートを作成していました。若い私が経営者向けの勉強会の定例出席者に選ばれたのは、そのレポートが評価されたこともあったのではないかと思います。
レポートは会社の顧問でいらした甲田先生にもお送りしましたが、早速甲田先生から直接「大変参考になった」というお手紙を頂戴しました。以来甲田先生と舩井レポートを介して親しくやり取りをさせていただくことが少なからずあり、甲田先生から可愛がっていただくようになりました。
さて、西式健康法の体験学習コースは「症状即療法」(しょうじょうそくりょうほう)「心身不二」(しんしんふに)「朝食抜き」「断食療法」など西式甲田療法の基本原理を学ぶとともに西式甲田療法の考え方に基づいた食事や体操、また入浴法などを実践するというもので、甲田先生のご指導を得て設計されたものでした。そしてコースの目玉は二日目の甲田医院での甲田先生の
「診察」にありました。
当時すでにその名声が世界的であった甲田先生の診察を受けるのは何ヵ月かの「予約待ち」が発生している状態でしたが、月二回火曜の午前中はコース参加者は直接甲田先生の診察を受けることが出来ました。私が甲田先生の診察を初めて受けたのもコース参加時のことでした。
甲田先生の診察は「問診とも言えない」問診のみで検査は一切なさいません。「問診とも言えない」というのは、甲田先生は目の前の患者の顔を見、手のひらを見て、それだけで診断を下されることが殆どであったからです。
特に病気があるわけでない参加者には何かを聞かれることは、まずありませんでした。
しかし、それだけでその人の日頃の生活態度や食事の嗜好、また症状に表れていない疾病などを指摘され、コース参加者を驚かせるということが少なからずありました。このコースに参加して私はモノの見方や考え方が変わりました。その意味では創業者の「狙い通りになった」社員の一人であったと言えます。
もともと理屈っぽい私にとって西式甲田療法の考え方は学べば学ぶほど合理性が高いように思えました。以来、住野さんの思惑通りに私は西式甲田療法の信奉者になりました。
驚異の甲田療法、甲田先生の治療
しかし、その時の私の西式甲田療法への理解はまだ「頭だけ」のモノでした。それを体で納得するようになるのはその後のことです。
そのきっかけは思いもしなかった体の不調でした。既に四十代になっていた私は会社の幹部社員になり、それなりの重責を担うようにもなっていました。
甲田先生は手相もご覧になりそれがよく当たるのですが、観ていただいたときに「責任感が強くて、正しいと思ったことは貫き通す性分やな、良いことやが頑固や」という事をおっしゃって頂いたことがあります。そういう性分が過重なストレスを招いたのでしょうか、春先に引いた風邪をきっかけに、数ヵ月咳が収まらず、当初は倦怠感、咳は収まったものの倦怠感は強い疲労感となり、終には仕事もままならない状態になりました。
この間病院も受診しましたが、確たる原因が解らず、医者の診立ては「心因性」、すなわちストレスによるものということで安定剤等の処方を受けるのみ、薬も少しは試しましたが、一向に症状が良くなるようには思えませんでした。困り果てた私が選んだのは健康センターへの入所でした。
既に甲田先生の知遇を得ていた私は直接甲田医院に診察をお願いすることもできましたが、「西式甲田療法の一部とはいえ実践者の私がこんな病気になって、甲田先生に会わせる顔がない」という気持ちが強くあり、直接診察をお願いすることに躊躇があったからです。
フラつく体で健康センターに入所した私は甲田先生の診察を受診しました。私の顔をご覧になって、先生はすぐに異常に気が付かれたのだと思います。診察室に入るなり「どうした?」とお尋ねになりました。私はこの数ヵ月ひどい疲労感に悩まされていること、病院で診断がつかないことをお話ししました。話を聞きながら私の手のひらをご覧になっていた甲田先生が「背中を見せなさい」とおっしゃいました。
背中を向けた私の背を先生は二本の指でなぞられましたが、あるところでぴたりと指を止められて、「腎臓がいかれている」とおっしゃり、机に向かい、サラサラと養生法(甲田先生の処方箋です)を書いてくださりました。
さらに一言「心配いらん。一か月で日本晴れになる」というお言葉を頂きました。
この先生のお言葉と処方を頂戴して、長く体の異常に苦しんでいた私は、本当に救われた思いがしました。後で聞きましたが、私の病気は「鈍重腎臓」と呼ばれるもので、検査しても血液や尿に異常が出ないものだったのです。世にいう処の「慢性疲労症候群」は鈍重肝臓や鈍重腎臓がその原因であるということも後に知りました。
養生法には西式甲田療法の食事法と体操(六大法則)、入浴法の回数などが書かれてあります。
そこには、食事は一日二回(昼食、夕食)玄米(軽く一膳の分量)と豆腐(半丁、150~200g)のみ、あとは青汁を午前、午後に飲むようにとあります。また水の摂取は1日3リットルの大量ので処方でした。西式健康法の「毛管運動」「金魚運動」を一日数分、数回、冷浴と温浴を繰り返す温冷浴を一日一回とありました。
水の大量摂取(午前中にできるだけ)と毛管運動(一日6回)は特に鈍重腎臓に効果があります。早速、ふらつきながらも処方通りの食事や体操を熱心に実行しました。コース修了、帰宅後も食事や体操を続けました。
養生法の実践を初めて二週間目ぐらいからでしょうか、メキメキ回復していることが実感できるようになりました。さらに日に日に体調はよくなり、先生の「一月で日本晴れ」というお言葉通り、四週目にはこれまで経験がないまさに五月晴れのような健康状態になっていました。
私が西式甲田療法、特に甲田先生がお勧めになっている「青汁」と「玄米と豆腐」だけの食事の効力を本当に知ることになったのは、この時の体験によるものです。以下がその折に、甲田先生から頂戴した養生法です。甲田先生は何パターンかの養生法をあらかじめコピーされてそれに量や回数、注意点を書き込まれていらっしゃいました。
病気の原因を見抜く甲田先生の眼力
甲田先生の不思議な診察と処方の力を経験したのは、この時ばかりではありません。その後、会社の人事担当役員になった私は社用でも度々甲田先生にお目にかかるようになっていました。ある日、甲田先生と顧問契約に関することで相談があり、甲田医院にお邪魔しました。その少し前から右肩に痛みがあり、腕が上がらない状態が数日続いていたのですが、甲田先生とのお話が終わり、失礼する間際に、思いついて右肩の痛みのことを相談申し上げました。
その時、甲田先生は私の左の下腹に視線をやられただけ、触診さえなさらず「左の大腸に宿便がたまっている」とおっしゃり、メモ書きにすらすらと食事の処方を書いてくださりました。
そこには大根を擦ったもの○○グラム(ニンジンと同量)、ニンジンを擦ったもの○○グラム(通常サイズ1本)、リンゴ(一個)を擦ったもの○○グラム、一日二回、昼と夕、と書かれてありました。そして、甲田先生は「二日で治る、ハッハッハ」と笑顔でおっしゃいました。
早速その夕食から処方通りの食事、二日目は会社に材料
おろし器を持っていって昼食、さらに夕食も同様の食事を一日半行いました。翌朝驚くなかれ、右肩の痛みは嘘のように消えていました。
(ちなみに3週間ほど前のことです。また肩に痛みを感じ、2日ほど経っても改善されないので、この時のことを思い出して、大根、ニンジン、リンゴのすったものの1日2回の処方を行ったところ、1日で完治しました。)
甲田先生にはこのような摩訶不思議な診断、治療のエピソードが数多くあります。ネットで検索してみても甲田療法で救われたという無数の体験談を目にすることが出来ます。私自身のことではありませんが、私の身近な人が体験したエピソードも面白いので紹介しておきましょう。その人はKさんと言います。Kさんも舩井先生とご縁のある方で船井総研のコンサルタントとして活躍された人でした。
そのKさんから胃潰瘍が長年の持病であることを聞き、私は甲田先生のお話をし、「良ければご紹介しましょうか?」と声をかけました。Kさんは甲田先生のことはご存知で、是非お願いします、ということになり、早速甲田先生の診察を受け、甲田療法を実践されるようになりました。Kさんの処方は、クリーム食(玄米の粉をクリーム状にしたものと豆腐+白身魚)のみ、これ以外は原則ダメ、という少々厳しいものでしたが、熱心に実行、すっかり回復されました。
調子も良くなったある夏の日、出先でスイカをご馳走になる機会があったそうです。翌日が甲田先生の診察日で「甲田先生のお顔」が脳裏をかすめましたが、大好物でもあったので、一切れだけご馳走になりました。甲田先生のお顔が思い出されたのは、甲田先生から「果物は取らないように」と言われていたからです。「ずいぶん体調も良いし、一切れぐらいは良いだろう」と思った、とKさんは言われていました。
さて翌日甲田医院に診察に行ったKさんが、椅子に座るなり開口一番甲田先生から「あんたスイカ食ったな」との一言。
玄米クリームの効用
Kさんの驚いたこと、恐縮したことはそれまでなかったというのがそのエピソードです。
余談ですが、Kさんの処方にある玄米クリームが優れモノで、胃の具合が良くない時などこれで随分と調子が良くなります。ミルマシンで玄米(通常一食0.8合程度)を粉状にして、適量の水を注ぎ(水が足らなければ随時足します)、なべでかき混ぜながら温め、泥状にします。時間は数分、これに塩を好みで足し、お豆腐、梅干しがあれば最強の簡易食になります。
胃の不調だけでなく、体調不良時に状況に応じて一日2回(昼と夜)を1日、2日、3,4日、1週間とやってみればその効果が分かる筈です。
なお、玄米食の実行には、5種類以上の野菜を1日一度ジューサーやミキサーでジュースやスムージーにして頂くことも忘れないで下さい。
重ねて余談ですが、甲田医院に入院している患者さんが食事療法の苦しさからついアンパンを買い食いし、翌日の診察で甲田先生に見抜かれ、お叱りを受けることがよくあったと、甲田先生の一番弟子、二十年近く一日一杯の青汁だけで元気に過ごされている森美智代さんから聞いたことがあります。甲田医院のご近所で鍼灸院を開業されている森さんは、そんな患者さんから甲田先生に買い食いがばれないように特別な「治療」をお願いされることがあったそうです。(写真 甲田光雄先生)
甲田療法を伝える一番弟子の森美智代さん
その森さんを舩井先生に紹介し、大変喜んで頂いたこともありました。森さんをお連れしたのは前述のように甲田先生の一番弟子が森さんだったからです。
森さんは若くして難病を患い、甲田療法に出合い、そしてその大病を克服されます。また森さんはその体験を通じて不思議な能力を身に付けられました。甲田先生がお元気なころ、後継者がいらっしゃらないことを心配する私に、笑いながら「こうして体に手を置くだけで悪いところが手に取るように判る、これは教えられるものじゃないからなー」とおっしゃっていました。
森さんはお医者様ではないですが、この甲田先生の「体に触れただけで、悪いところが判る」という特殊能力を引き継がれている唯一の方です。
森さんが特別な能力を持たれていることは私自身も何度か体験しましたし、甲田先生に代わってお願いすることになった健康センターの「診察」を受けた入所者の体験談からも、確信がありました。そういうこともあって、森さんを舩井先生にお引き合わせすることにしたわけです。
森さんを舩井先生のところにお連れした折の事は、以下のリンク、舩井幸雄先生のブログに詳しく書かれています。
またこのブログでも森さんの特殊能力の私の体験談を紹介しています。
西式健康法の基本原理①「症状即療法」
さて折角の機会でもありますので、ここで主要な西式甲田療法の考え方や具体的な療法に関して、私の知るところを簡単に解説させて頂きたいと思います。
西式甲田療法の二大原理は「症状即療法」と「心身一者」にあります。中でも「症状即療法」はもっとも重要な大原則で、これは読んで字の如く、「症状はすなわち療法である」ことを意味します。この原理を西先生が発見した経緯はこのようなものでした。
幼少より病弱で微熱と下痢に悩まされていた西先生を心配されたご両親は日本中の名医を訪ね歩き、診察、治療を受けますが、一向に良くならないばかりか、匙を投げた医師から「この子は長生きできません」と言われることもあったそうです。成長して青年期を迎えられた西先生は同様の症状に悩み続けるのですが、医師が見放すなら、自分で治療法を見つけるほかないと考えるようになります。そこで古今東西の医学書や健康本を読み漁(あさ)り、少しでも納得できる療法があればそれをやってみる、ということを始められました。
しかし、どの療法を試しても一向に良くなる兆候が見えません。思いつめた西先生はやけになり、最後の方法として「医者のいうことを聞いても一向に良くならないのだから、医者のいうことと反対のことをやってみよう」と決心します。そして下痢に良くないと止められていた生水の飲用、また風邪をひきやすいから厚着にするようにと言われた指示の逆、日頃寒くとも薄着にし、熱が出たら、下げるのではなく逆に厚着にして熱を上げるようにしました。そしてそれをしばらく続けるうちに、長く続いた下痢も治まり、微熱も快癒するに至ります。
このことが症状即療法
原理を見出す機会になりました。長く苦しんだ「下痢」も「熱」も体が良くなろうとする「療法的」働きであったのですが、病気の原因が解らず、症状の改善にのみ熱心な「現代医学」の医師は、体が良くなろうとするこれらの反応を妨げることにしか治療法を見出すことが出来ませんでした。
よく考えれば「症状が療法」なのは当たり前のことです。何か体に悪いものを誤って飲用したとき、嘔吐で悪いものを体外に排出しようとします。胃から腸へと入ってしまえば、今度は下痢によってできるだけ早く体外への排出を行います。吐き気も下痢もこのように毒素、毒物を体外に排出する働きです。
熱も同様で体温が一度上がると免疫力は5倍になる、というのが免疫学の常識になっています。マラリアで高熱が続いたがん患者が寛解した(がん細胞が消える)例も報告されるのはこのためです。このブログでたびたび紹介させて頂く中村天風師も、「熱が出たら下げてはならない、お燈明を上げて神様に感謝すべし」とおっしゃっています。
同様に、伊豆で断食道場を運営されている石原結實(いしはらゆうみ)先生は「食欲不振と高熱は天下の二大名医ある」とおっしゃっています。これは食欲不振=食べないことと高熱が病気を早く治す秘訣であるという意味で、症状即療法と同義です。
万病に効果がある「朝食抜きの二食主義健康法」
この症状即療法とともに甲田先生が特に健康の秘訣として強調されていたのが、少食と朝食抜きの二食主義健康法です。甲田先生には朝食抜きを薦めるご著作が複数あります。それらの著作の副題には「朝食を抜くだけで病気の9割はよくなる」というものもあります。
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“朝食こそ三食の中でも一番大事な食事である”という現代医学や現代栄養学の常識から言えば「とんでもない暴論」のように思われる「朝食抜き」ですが、少し勉強すれば朝食抜きが優れていることは直ぐ判ります。
よく甲田先生が紹介されたのは、フランスのスーリエ医師による尿中毒素の実験です。スーリエ医師は食事の仕方で尿中毒素の量に変化があることを発見します。それによると一日一食(午後)の場合に尿中毒素は一番多く排出され、朝抜きの二食がそれに続き、一番少なかったのは朝、昼、夕の三食ではなく、朝と夕の二食のパターンであったということです。尿中毒素が多いということは体内の毒素の排出、流行りの言葉でいえば「デトックス」が盛んにおこなわれていることを意味します。
またアメリカで1200万部を超える大ベストセラーになった健康本のバイブル『フィット・フォー・ライフ』(ハービー・ダイヤモンド著)でも朝食抜きが薦められています。曰(いわ)く人間には24時間のサーカディアンリズムがあり、8時間毎に摂取(12時~20時)、吸収(20時~4時)、排せつ(4時~12時)と体の働きが変わる、排泄の時は排泄の臓器である腎臓や大腸を活発に働かせるべき時で、この時に食事をすると消化のために胃に血液が集まり、排せつの働きを阻害する、よって午前中は食事をしてはならない、というのが著者のハービー・ダイヤモンド博士の主張です。(図 サーカディアンリズム)
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「万病一元血液の汚れより生ず」という東洋医学の考え方は、すべての病気の原因は血液の汚れ、すなわち体内の毒素に依るものである、ということです。そう考えるならば、朝食抜きや断食に難病治療の効果が高いことも肯(うなず)けます。
なぜならそれらが、排泄、排毒、デトックスを促進するものであるからです。特に断食は疾病治療に大変な効果がありますが実行するのはなかなか大変です。適切な医師の指導がない場合には危険ですらあります。しかし朝食抜きの二食健康法は誰にも簡単に実行できます。ただし3食分を2食で食べるような「大食い」は逆効果で、あくまで少食が基本であると甲田先生が力説されていたことも付記しなければいけないでしょう。
基本原理②「心身一者」そして世界平和の祈り
最後に、西式健康法の「心身一者」(心と体は一つのものである)について簡単に申し述べたいと思います。
甲田先生は前述のように排泄(排毒)を重視されていました。中でも宿便が万病の元であるとして、宿便の排泄を難病治療の重要な要素とされていました。宿便とは不思議なもので、一週間も断食を続けて腸内にあったものは出尽くしたような患者がある一線を超えるとバケツ半分もの便を排出して、それ以来疾病が快癒するという例が甲田医院では日常的でした。宿便排泄はデトックスの重要な目安で甲田先生にとっては宿便退治が治療目標でもあったわけです。
「心身一者」=すなわち心と体は一つのものであるという事、心の状態が体調の良、不良と大きな関係があることにもはや説明の必要はないでしょう。
関係がある以上にそれは「不二」、分かつことの出来ないものであるというのが「心身一者」です。その意味で甲田先生が重視されたのは、体の宿便と共に心の宿便を取ることでした。
甲田先生は心の宿便を「貪(とん)瞋(じん)痴(ち)」の三毒(仏教の説く根本の煩悩の貪むさぼり、怒り、迷妄)であるとされました。そして、これを除くために甲田先生は平和のお祈りを患者さんに薦められました。
それが写真の甲田先生のお祈りです。ご直筆は私の手元にありましたが、森さんが三重県名張市に断食道場「あわあわ」を開所された折、お祝いに額装し、ピースポールと共に、寄贈させて頂きました。
(写真 甲田先生直筆の「平和の祈り」)
甲田先生のご晩年の宿願は少食、断食と世界平和のお祈りが実践できる「健康道場」の開設でしたが、森さんはこの甲田先生のご遺志も引き継がれています。
「あわあわ」では定期的に断食体験会が開催されており、以下のような体験談もネットに上げられています。ご興味あれば森鍼灸院に問い合わせください。
(2018.11月追記 ちなみに私も昨年から「あわあわ」での1週間の断食実習会で、甲田先生へのご恩返しと思い、受講者対象に2日間、6時間ほどの西式甲田療法の講話をさせて頂いています。)
心の宿便を取る世界平和の祈り
この甲田先生のお祈りは五井先生のお祈りを甲田先生のお言葉に置き換えられたものです。甲田先生は世界平和の祈りの提唱者であった五井先生を深く尊敬されており、親しい人には折に触れて、このお祈りを薦められていました。
かく言う私もその一人で、「甲田療法で命を救って頂き、平和のお祈りで魂を救って頂きました」と生前の甲田先生にお礼申し上げたことがありましたが、その時の甲田先生の嬉しそうなお顔が今でも目に浮かびます。
甲田先生は「医は仁術」を体現された方でした。検査はせず、薬も処方せず、食事法を中心とした西式甲田療法で万余の病気に苦しむ人々を救われました。
もう甲田先生はいらっしゃいませんが、前述の森さんが鍼灸師として西式甲田療法による治療に当たられていますし、先に紹介したご著作をはじめとして、甲田先生のご著作を読むことが出来ます。
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(森鍼灸院のホームページです)
甲田先生ご逝去から八年、最も合理的で卓効(たっこう)のある根本療法は西式甲田療法と世界平和の祈りであるという私の信念はますます強固になっています。
「世界平和の祈り」で「心の宿便」を取り、さらに西式甲田療法の実践で万病の原因である「血液の汚れ」(体内の毒素)を除去する事、これが病気直しの大道であると確信を持って言えます。
だから病で苦しまれている方は先ず西式甲田療法に取り組まれることをお勧めしたいのです。
本稿を閉めるにあたって、改めてお世話になった住野さん、そして甲田先生、舩井先生に改めて感謝をささげるものです。
以下 関連記事
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法
参考記事
霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
霊性心開発の方法 ④ 五井昌久先生「老子講義」より
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
体験談①至高体験と妖怪との遭遇で知ったこと
体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い
体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと
その他 当ブログ記事一覧
至高体験 来て見て触って、富士通のお店
がんの自然退縮〔22〕
〔20〕の至高体験は自己と世界の融合を特徴とします。二分法的概念的思考(分別知)が消失するので、自我が膨張し、宇宙あるいは「神」と一体化し、ある時は無限の光の輝きを伴いながら至福感を感じるのです。
性的快感になぞらえると、論理的思考に関与する右脳・下前頭回(Inferior frontal gyrus) の働きが弱まると同時に、善悪等二分法的な判断をする際に活性化する脳領域である後帯状皮質(Posterior cingulate cortex)と島皮質(Insular cortex)(男性では上側頭溝(Superior temporal sulcus))の働きが特に強く抑制され、副交感神経が極度に賦活化されます.交感神経が緊張する「不安」とは対処的な意識状態です。そしてオーガズムに達すると一気に交感神経が活性化され、アドレナリンとドーパミンが放出されるのです。
至高体験における流涙はこの交感神経の緊張をリセットさせるものとみなすことができましょう。アセチルコリンが多量に放出され、Tリンパ球が活性化されるものと推測されます。
瞑想しているからガンにならないというわけではありません。
瞑想三昧の生涯を送った南インドの聖者と呼ばれたラーマナ・マハーリシは胃がんとなり、毎晩、「痛い」と大声で叫ぶので、お弟子さん達は困ったそうです。
覚者と呼ばれた人でも、がんで亡くなった人は多いです。ラーマ・クリシュナは咽頭がんで、クリシュナ・ムルティはすい臓がん・・・・。
瞑想指導の第一人者と言われたY氏も60歳台初めにがんで亡くなりました。
交感神経のリセットができなかったせいでしょうか。
もっとも、生死を超越した彼らにとってガンで死ぬのは何でもないことではなかったかと思われます。クリシュナ・ムルティはガンになったことがわかったとき、「自分は何か悪いことをしただろうか」とつぶやいたそうですが。
至高体験を買いたい人集まれー。
祈りとは何か
前回のつづきです。五井昌久先生は「祈りについて」このようにおっしゃっています。
先生のご著書「聖書講義」からの引用です。
宗教というものが、どのような宗教でも、種々と形は違いますが、祈りを重要視していない宗教はありません。仏教の坐禅などは、祈りとは違ったもののようにみえますが、やはり祈りの姿なのです。
祈りとは常に私が申しますように、汚れや濁り(にごり)や凝り(さわり)という、生命の働きを損う(そこなう)あらゆる状態から超越して、生命そのままを現わすための方法です。
生命そのままとは、生命は神より来ているものですから、神と一つにつながって、神の生命がそのままそこに現われた状態をいうのであります。
ですから仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのものであるわけです。
ここで五井先生は、座禅観法=「無念無想による空観」も「祈り」も本質において同じものである、とおっしゃっています。そして、生命の本質は神(=大いなる存在)であり、その本質をそのままこの現実生活(肉体生活)に現すための方法が祈りであり、座禅観法であるとされています。
前回紹介しましたが、エックハルト・トールも「さとり」とは何かについて
「『大いなる存在』こそが、『人間の本質』で、わたしたちは、それをじかに感じられるのです。『わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!』という感覚がそれです。『わたしはOO(名前、職業など)です』という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。」
と述べていますが、これは五井先生のおっしゃっているところと同じ意味でしょう。
更に五井先生は「祈り」におけるありがちな誤認識についてこう述べられます。
ところが民間で行なわれている祈りというものは、ともすると、そうした祈りの本質を外れて、ただ自己の欲望達成のために、自己以外の力にすがりつこうとする状態と、誤り考えているようなのです。
現世利益のためには、お蟇(がま)様でも、お狐様でも、お蛇様でもなんでもかまわず、お願いしますと掌を合わせること、それが祈りだと思っているのですが、とんでもない間違いでありまして、そういう心の状態は、祈りとはなんら関係ない行為であります。
何故ならば、祈りとは生命の本質を現わすためのものであり、生命を宣り(のり)出すためのものであり、業想念をふりはらって、神との一体化を成就するための行為であるのですから、ただ単に肉体生活の利害関係を他の力にすがって有利にしようなどという行為が、祈りの本質であるわけがありません。
仏陀(釈尊)はそういう行為を嫌われて、自己以外の何々様という神様らしくよそおう他の力にすがらぬようにと、自己内部の仏を見出す、坐禅を教えたのであります。
ここで、本当の祈りと誤った祈りの違いはどこにあるのかということを五井先生は述べられています。
目先の利己的な利益を求めて、蝦蟇(ガマ=カエル)を拝んだり、キツネを拝む「愚」について上げられていますが、たとえそれがイエスや釈迦を対象にしたものであったとしても、自己の肉体欲望のためだけの祈りは『本当の祈り』でないということもおっしゃっているのでしょう。
何故ならそのような肉体的欲望の想念行為こそが、病や不幸を根本から解決する力の源であり、自己の本質でもある「大いなる存在」、「神」、「宇宙霊」からの光を妨げてしまうものだからです。
更に五井先生は「祈りについて」、釈尊とイエスの教えを対比され、このように続けられます。
肉体を超越した自己の奥深くに働いている自己の本心が即ち仏であり、神であるのだ、ということを、自己の内面を一心に見つめることによって悟る、という方法を釈尊は弟子たちに教えているのです。
ところがイエスは、釈尊と同じように、「我が内に神はおわす」と教えると同時に、天にまします我等の神よ、というように、肉体人間を離れた天のほうにおわす、絶対者である神をあがめることも教えているのであります。どちらかというと、我が内におわす神、という、釈尊的な教えよりも、より多く、天にまします神、という、肉体人間を遠く離れた、至上至尊の存在者としての神を教えることが多かったのです。
ここで五井先生が述べられているのが、「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」という今回のブログのテーマにかかわる部分です。
自力行と他力行
一言で言えば、無念無想の空観(内観=釈尊的な教え)は自身の意志力で「大いなる存在」にアクセスする方法であり、これは自力行と呼ぶことができるでしょう。
座禅観法で真の救いを体得した人はいらっしゃるとは思いますが、決してその数は多くなく、普通の生活人、凡人凡夫にとってその実行は容易ではありません。
これに対して祈りとは、神仏の力を借りるという点で他力行と呼んでよいかと思います。
少しニュアンスは違いますが、「南無阿弥陀仏」という称名に力がある理由を、過去のブログに書きました。参考までそれを以下に引用します。ここで書いたことが他力行の効用です。
霊性心開発の方法① 五井先生の易行道
五井昌久先生は著書(生きている念仏)の中で、南無阿弥陀仏を唱える称名念仏で悟りを得た「妙好人(みょうこうにん)」を紹介しながら、このようにおっしゃっています。
「現今の人たちは、阿弥陀様という仏様が、西方極楽浄土におわして……ということは、とても信じ切ってはおるまいと思います。
もっとも、才市翁の念仏も、何も弥陀を西方極楽浄土にあると思っているのではなく、宇宙に満ち充ちている神として観じていた、いわゆる親様として観じていたのでありますから、肉体のあるそのままで、神我一体の境地になれたのであり、安心立命し得たのであります。」
才一翁とは「妙好人」の一人です。妙好人とは全く普通の市井の庶民が念仏に専心することで、高僧、名僧以上の高い悟りの境地に入った人のことを言います。
五井先生は前述の著書でこの妙好人の例を幾人か上げられ、凡夫が悟りに至る道を平易な言葉で解説されていますが、上の五井先生の言葉をこのブ
グのテーマである「霊性心」という観点で解釈すれば、念仏に専心することで雑念妄念を払い、霊性心を発現し、更に「神我一体」「安心立命」の境地に至ったと読むことが出来ます。
(中略)
更に五井先生はこのようにおっしゃいます。
「と致しますと、この阿弥陀仏は、何も阿弥陀仏でなくとも、何仏でもよく、神という言葉でもよいわけで、法然や親鸞が、西方極楽净土と場所を定めたのは、仏説の法蔵菩薩の四十願の、自分が西方極楽浄土に阿弥陀仏という仏になって、すべてを救う、ということをとらえたわけで、実際に法蔵菩薩が存在した、しないは勿論、西方でも東方でも法然や親鷺にとってはよかったわけで、只(ただ)、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。
それでなければ、南無釈迦牟尼仏と念じさせたわけであります。(中略)南無阿弥陀仏だろうが、南無釈迦仏だろうが、どちらでも一向にさしつかえないのです。」 引用終わり
ここで大事なことは「只、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の大光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。」という部分です。
ここで五井先生は、弥陀称名の祈りに無念無想の空観(=座禅観法による内観)同様の効果があり、万人が実行し得る易行道であることをお話になっています。
これと同様のことを、五井先生は質問「お釈迦様の教えと五井先生の統一はどう違うのですか?」への答えとしてこう述べられています。
お釈迦様は素晴らしい方です。教え方としては、自分が自分を悟るわけですね。自分の中の仏を出すように、坐禅観法するわけです。
お釈迦様!と阿難みたいにお釈迦様ばかり思っている人は、これは他力ですから、お釈迦様の光がまるっきり入ってくるわけです。
しかし、お釈迦様!と思わないで、ただ方法だけ(座禅観法)をやっている人がありますが、この人たちはあくまで自力でやらなければならないわけです。(中略)お釈迦様が自力というわけではないんです。お釈迦様を思えば他力になるんだけれど、お釈迦様を思わない場合に、方法だけやる場合に自力になってしまう。
ここにある阿難とは釈迦の十大弟子の一人で、多聞第一と呼ばれ、釈迦の教えを後世に伝える中心的役割を担った人物です。
この阿難のように釈迦にすっかり自分を委ねてしまえば、そこに自身の本体である内在神、大いなる存在が現れてくる、ということを五井先生はおっしゃっています。
もちろん、委ねる対象は釈迦である必要はありません。イエスに自身の想念をすっかり委ねてしまえば、同じこと、イスラム教のアッラーであっても、ヒンドゥー教のブラフマンであっても、人間と神が本来一つのものであることを説く宗教、教えはすべて同じことでしょう。
同じことなのですが、悲しいかな、ここに肉体世界の「個の思い」「妄想念」が加わると、前回のブログで紹介したようなことが起こります。
多くの人々は、この言葉の背後にある、「広大無辺の果てしなさ」に気づかないのに、あたかも「神」を知りつくしているかのように、この言葉を使っています。「神」の存在を、思いこみから否定しているのも、これまた誤解です。このような誤解が、「わたしたちの神はほんもので、あなたの神はにせものです」といった発言や、ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」などを生むもとになっているのです。(エックハルト・トール)
この様な誤認識の果てが、異教徒への排斥や攻撃、更には大規模な戦争まで引き起こしてしまうのですから、愚かなことです。
少し観点は違いますが、興味本位や肉体の現世利益、利己的願望だけを求めて、神を求める誤りを五井先生はこう述べられています。(老子講義 )
どんなに神様を求めていても、それが何等かの興味であったら、それはもう純粋に神を求める態度ではなくなるのです。神を求める想いは純粋でなければなりません。自己の本心(仏性)開発の為にこそ神を求めるのです。(中略)
老子はそうした真理を実によく知っていますので、神霊現象のようなことは殆んど説かずに、一直線に神のみ心の深い奥底に人々を導き入れようとしているのであります。
善いことにも悪いことにも、すべての事柄に把われ(とらわれ)させないように、把われの元である想念波動を、どこかへ消し去ってしまおうとして、無為にして為せ、というのであります。
神といえば、神に把われる、仏といえば仏に把われる、そこで、想念行為と直結している道という言葉で、人間の生き方を説いているのです。道といえば、神に姿を求めるような把われ方はしないからなのです。
すべての把われから解放された時、人間ははじめて自由自在の身になり得るわけです。その一番やさしい方法、消えてゆく姿という言葉をつかって、神の道に導き入れているのが、私の説いているところなのです。
ここで五井先生はその本質において釈尊やイエスと同じことを説いた老子が、神仏という言葉や概念を敢えて遠ざけられた理由を語っておられます。
祈りはここで言われるように純粋無雑に神仏を求めるものでないと、自身に内在する霊性、神性を現すことがかなわないということです。
純粋無雑に神仏を求めるというのは、利己的な肉体的願望に関するお願いや自分勝手な依存とは無縁のものです。
生かされていることへの感謝、四六時中守って下さっている守護の神霊への感謝など、不足の思いからの願望でなく、既に満たされていることへの感謝が神仏を求める気持ちの根底にあるときに純粋無雑な「祈り」が生まれます。
そのような純粋無雑に神仏を求める心があれば、その祈り心の赴く(おもむく)先に、必ず霊性、神性が発現されます。
何故ならその時に座禅観法の求める理想の空観と同様の無念無想の境地に至ることができるからです。
冒頭紹介した五井先生の言葉「仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのもの
である」の意味はこのように考えると理解いただけるのでないかと思います。
ただし現代社会に生きる私たちにとって、阿弥陀仏は勿論のこと、釈迦やイエスにしても純粋無雑にこれを求めるということはなかなか容易ではありません。
そこで五井先生が提唱されたのが「世界平和の祈り」です。
現代を生きる人類のための世界平和の祈り
五井先生は「世界平和の祈りで、なぜ救われるのですか?」という質問に答えられて、このようにおしゃっています。
まず大概の人が、個人の私というものと、世界人類というものとは別のような感じがしている。ふつう何も関係がないような感じがしています。自分一人がどうこうしたって、世界が動くものではないとか、すべては政治の責任とかいって、自分とは関係ないような感じがしている。
ところが、個人個人が集まって国家になり、人類になるわけですよね。
だから個人一人の動きというものは、大変な力を持っているわけです。皆さん方一人一人の世界平和の祈りは、大きな大きなひびきをもって、世界中に広がるわけなのです。
ですから皆さん一人一人が大変な役目を持っている、ということは確かなことなのです。
そのように、世界平和の祈りというものは、世界人類のためにやるのだけれども、それは取りも直さず、自分のためにもなるのです。
自分の中には、病気だとか不安だとか、臆病な想いだとか、妬みの想いだとか、恨みの想いだとか、そういういろんな業想念があります。
それが世界平和の折りを祈ると、世界平和の祈りが持っている大光明の中で消されてゆくわけです。
消えてゆく姿のものはどこへゆくかというと、救世の大光明の中へ消されてゆくのです。業想念が消えてゆくと、何か起こるかというと、人間は本来神の分け生命でしょ。神の生命そのものですね。だから本来の神の生命がそのまま生きてくる。
年中、神の叡智や能力が入って来ているんですよ。
それを人間は業想念でふたをしてしまって、拒絶しているわけなんです。
それで頭の中に溜まっている蓄電池(潜在意識、幽体)の想いでもって、ああじゃない、こうじゃない、とやっているんです。
それを常に直通する、天地を貫く生命の波にすればいいわけです。
そのために、ああじゃない、こうじゃないという想いをなくす。それが「空になれ」というお釈迦様の教えだったり、「無為にしてなせ」という老手の教えだったりするわけです。
だからこの業想念を取っちゃうんです。それが消えてゆく姿です。
過去世からの業想念行為が、運命となって現われて、病気になったり、不幸になったりするわけです。病気になって現われた、嫌な想いになって現われた、不幸になって現われた時に、「ああ、これは消えてゆく姿なんだな。世界人類が平和でありますように、みんなが平でありますように」という想いで祈りますと、その悪いことが祈りの中で消えてゆくのです。
消してくださるのは救世の大光明、神々なのです。そうして消えてゆくに従って「世界人煩が平和でありますように」という愛の気持ち、愛の光明波動がそのまま自分の中に残るわけです。自分の今まであった悪いものは消えて、新しく大光明のプラス面が入って来て(もともとあったんですけれど)、記録されてゆくわけです。
それを繰り返し繰り返しやっていれば、いつの間にか過去世の悪いものはなくなって、世界平和の祈りの愛の気持ち、大光明のひびきが自分の心をいっぱいにしてゆくわけです。
だから、世界平和を祈ることは、自分のために祈ろうと思わなくても、世界人類のために祈っても、自分のためになるわけなのです。自分も救われると同時に、世界人類も救われるんだ、というふうに広い気持ちを持って、気楽に、しかし真剣にやってください。
ここで五井先生がおっしゃっていることが現代に生きるわれわれ凡夫、凡人にも容易に取り組める祈りの方法とその効果なのです。
今回のブログテーマ「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」で私が述べたかったことはこの五井先生の質問への回答にあります。
人間とは何か 人を構成する4つの体
ここで、過去数回のこのブログで書いてきたことを整理して、今回のテーマについてまとめてみたいと思います。
上の図は下のリンクのブログで説明したことがある五井先生の最初のご著作である「神と人間」にある図です。
神と人間
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
この図にあるように人間という存在は大きく分けても神体、霊体、幽体、肉体という4つの体を持っており、人間の幸不幸など種々の運命は幽体(潜在意識)に記録されている過去の想念行為がその原因となっており、この幽体の大掃除が病や不幸など、命の改善に不可欠であるということを上のリンクで説明しました。
五井先生はこのようにおっしゃっています。
いつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。
肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉体身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
ここでは智慧とおしゃっていますが、病や不幸を根本から解決する力、原動力と言い換えることもできます。また同じことをこのようにもおっしゃっています。
人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。
いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。
人間には人生における種々の問題を根本から解決する「内在力」が備わっているのですが、肉体頭脳の力だけでこれを解決しようとすると、肉体頭脳の雑念妄念がこの力の入口を塞いで(ふさいで)しまうことになるのだ、ということを五井先生も天風師もまた釈尊やイエスも繰り返し、繰り返し教えて下さっています。
このブログで何度も紹介してきた天風師の以下の言葉もこの事をおっしゃったものです。
人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。
とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。
天風師の教えのエッセンス
天風師のおっしゃっていること、教えを先の「神と人間」の中の図で説明するとこのようになるでしょうか。
天風師の教えの柱である観念要素の更改とは顕在意識の消極的想念を積極的なものに意志の力や暗示の力で置き換えていくことを意味します。今の言葉で言えば「ポジティブシンキング」です。
しかし、これだけでは過去(過去世)からため込んできた誤った想念行為の記録(ゴミ=仏教で言えば貪瞋痴の三毒)を簡単に消し去ることは出来ません。
これらのゴミをすっかり焼却してしまう大掃除ができるのが神性、霊性からの光(波動)による浄化で、これを可能にするのが安生座打法=無念無想の空観なのです。
卑近な例でたとえれば、ソニッククリーナーを思い出してください。
メガネ屋さんによく置いてある器具ですが、水や溶剤に超音波を当て、その微細な振動でメガネや宝石などの掃除がしにくいところの汚れをはがしてしまいます。
これと同じように、霊性、神性の微妙かつ強力な光(波動)で幽体(潜在意識)の汚れを浮かせ、消してしまうと考えればよいと思います。
霊性、神性の光(波動)にはその力があります。
その光を人間存在の奥から肉体世界に引き出す方法が無念無想の空観で、天風師はどちらかというと自力でこれを行うことを教えられています。
五井先生の世界平和の祈りは溶鉱炉
これに対して五井先生は他力行です。
先生は「人間にとって真の幸福とは何ですか?」という質問に対して、このように述べられています。
本当の幸福というのは、一言でいえば、人間の本心を顕すということ、自分自身を知るということです。ソクラテスじゃないけれど、「汝自身を知れ」というように、自分自身を知ることが一番幸せなんです。
自分の本体が分かり、本質が分かるということほど、幸せなことはありません。
もう不退転で、驚くことが何にもなくなるわけです。それには何も付け加えることがないんですよ。それはどういうことかというと、まぁ、自分というものは神様から無限に生命の波を頂いている。いわゆるエネルギーがエネルギー源から常に流れてきて、必要な物はすべて与えられるんだということを知ることなんですね。
それが一番幸福なんです。それを外から与えられるという形で思うからいけないけれど、内から-もっと言い換えると、人間というものは、本当はこの五尺何寸という、そういう目に見えている形じゃないんですよね。波勣なんです。光の波動なんだけれども、ふつう肉体にいる人は光と業想念の黒雲の波動が混ざって、少しまだらになっている。(皆さんはもうまだらじゃなくて白光になっているんですよ。)
その光の波動は大生命の根源から流れてくる。宇宙子科学でいえば、宇宙子波動です。宇宙子がたくさん集まって、この生命体になっているわけですね。だから神様のほうに向いて
いさえすれば、神様につながってさえいれば、その人に必要なものは何でも与えられる。
(中略)
そこでまた繰り返すけれども、お釈迦様は空になれ、空になれ、って坐禅させたんだし、老子様は無為だ、無為だ、無為にして為せ、ってやっているわけです。
だけど空になれ、と言ってもなかなか空になれないし、無為になれ、と言っても無為になれないから、私はみんな現れてくるものは消えてゆく姿ですよ、と言っているわけです。
消えてゆく姿なんだからそれに把われることはない。しかし把われたら把われたでいいから、把われた想いを、もっと大きな高い所に、神様の中に入れてしまいなさい。ただ神様、神様と言っても神様は見えない。どこにいるか分からない。「神様どこです? 私の想いをとってください」じゃ分からない。
そこで「世界界人類が平和でありますように」という神様のみ心ですね、神様のいわゆる理念といいますか、神様のみ心の中の世界人類が平和である、という所へこちらが「世界人類が平和でありますように」って持っていって入れてしまいなさい、というわけですね。
どんなことが出てきても入れてしまいなさい。貧乏が出てこようと、病気が出てこようと、短気が出てこようと、妬みが出てこようと、そういうものは、みんな「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私どもの天命が完うされますように」って、そこへ入れてしまいなさい、と、言っているわけです。
楽なもんですよ。入れてしまうと、邪魔する想いが、その目的の中へ入ってしまうでしょ。
世界平和の祈りというのは、大光明、神様のみ心だから大光明です。だから想いをどんどんどんどん消してくれるわけですよ。
ゴミを持って行って、捨てればいいでしょ。そうすると空になるでしょ。それと同じで、神様は、もうパーッと燃え上がっている溶鉱炉だと思えばいい。鉄でもなんでも溶かしちゃう。そういう溶鉱炉だと思えばいいですよ。
その中に、世界人類が平和でありますように、って入れれば、溶鉱炉がいっぱいに燃え上がっているんだから、その中にどんなゴミでも、どんなものでも投げ込めば、みんなパーッと燃えて光になっちゃう。
そういうふうに思えばいいです。本当にそうなんだから。だから、どんな悩みがあろうと、貧乏があろうと、病気があろうと、自分がいけないと思う心があっても、あいつは嫌な奴だと思う心があっても、そんなものはみんな世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい。
世界平和の祈りの大光明が、溶鉱炉がみんな焼き尽くしてきれいにしてくれる、光一元にしてくれる。
そうすると、それがまたこっちへ流れてきて、こっちは光り輝く人間になるんだから。邪魔な想いをそこに捨てなさい。「消えてゆく姿で世界の祈り」と一生懸命、私が汗流して説いているわけです。
この五井先生の教えを先と同じように図示すれば以下のようになるでしょうか。
この図のように「消えてゆく姿で世界平和の祈り」とは肉体から神体までパイプを通すようなものです。その光のパイプから霊性、神性の光が幽体、肉体に流れ込んでくると考えればよいでしょう。
この霊性、神性の光の波動が幽体の汚れをすっかり消し去り、溶鉱炉の火のように燃やし尽くすのです。
五井先生は同様の事を、老子講義の中でこう述べられています。
肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。
法華経の結経「観普賢菩薩行法経」には有名な一説があります。
一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す
お分かりでしょうが、こういう意味です。
人間の一切の苦悩、不幸は、皆、誤った想念、妄想念によって生ずるのである。
これを正すには、ただ端座して、人間の本質、実体を想えばよい(無念無想の空観、または純粋無雑の祈り)。
そうすれば、過去の誤てる想念、行為によって生じた因縁因果の罪は、霜(しも)や露(つゆ)のように、全て太陽(霊性、神性)の光によって消え去るのである。
長くなりましたので、今日の結論です。
上の普賢経の一節を実践するための最も容易な方法が消えてゆく姿で世界平和の祈りである、ということが今日のこのブログの結論で、皆さんにお伝えしたいことです。
次回はこのブログの読者の方がお仕事にされたり、興味を持たれているが多い「引き寄せの法則」に関して書いてみたいと思います。
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体験談
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