至高体験 今日も笑顔とまごころで
前回のブログの最後に、「次回は私の信じる「さとりをひらく」ためのもっとも「やさしい方法」について書いてみたいと思います。」と書きました。今日はその続きです。
それが五井昌久先生の「世界平和の祈り」で、先生の世界平和の祈り、消えていく姿の教えについては既に以前のブログで書きました。
中村天風師がインドでの瞑想経験から「霊性心(さとり)は容易に出てくる、雑念や妄念を払いさえすれば自然に出てくるんだ」とおっしゃったように、またエックハルトトールが「迷走、暴走する思考をストップする」ことで覚醒を経験したように、「思考を止める」ということが「さとり」「霊性心開発」の入口であるのは疑いがありません。仏教のいう「空」の境地や「空観」も頭の中を去来する様々な思考を止めることで自身の本性である仏性を覚醒させるという事でしょう。
五井先生の想念停止の修業
この「思考を止める」という修行を通じて、ご自身の神性と一体になられたのが五井昌久先生です。昨年は五井先生のご生誕100周年でした。それを記念して出版されたのが身近で先生に仕えられた高橋英雄さんが書かれた「五井せんせい わが師と歩み来たりし道」です。
この本の中で五井先生の想念停止の修業を紹介され、「五井先生が言語に絶する霊修行にて自我の想念を滅却したのち直霊と一体となったのは昭和二十四年、六月の終わりごろと聞いている。」と書いていらっしゃいます。
直霊とは大元の霊、いわば大霊で、先生が神我一体となられたこの体験がどのようなものだったかはご自身の自叙伝「天と地をつなぐもの」に詳しく紹介されています。
高橋さんも本の中でこの自叙伝の一節を紹介されています。
「私の想念停止(空観)はついに成功したのであった。私はものを想わなくなった。しかし必要があれば語り、用に応じては手足を動かし、体を働かせることもできた。私という肉体的個人はもはやこの世に存在しなくなっていた。私の過去世からの想念のすべてを天に還してしまったのである。天と地の間にただすっきり澄み徹った私がいた。久しく停止していた私の個我がすでに天の本体と合体していることを直感した。」
五井先生が創設された白光真宏会のホームページに自叙伝の一部も公開されています。
興味のある方は、以下のリンクをご覧ください。
高橋さんの本では五井先生と釈迦、イエスキリスト、老子との合体、合気道の開祖の植芝盛平先生との交流などのエピソードとともに日常の五井先生の人間的な一面も数多く紹介されています。この本は五井先生の事をご存じない方が五井先生に触れる絶好の書ですから是非お読みになることをお勧めします。
さて、今回のブログで改めて五井先生について書くのは、冒頭の天風師のインドでの修行による「さとり」やエックハルトトールの覚醒体験を凡夫、凡人が容易に実践できる方法を紹介したいからです。
先の五井先生の自叙伝「天と地をつなぐもの」や最初のご著作の「神と人間」は五井先生のご著作の中の重要なものですが、先生のご生誕七十周年記念として新装丁で出版された「老子講義」も大変重要なご著作です。
そこで、これまで書いてきた「霊性心開発(さとり)の方法」の締めくくりとして、五井先生の老子講義から、「さとり」の為のヒントをご紹介したいと思います。
無為にして為す
老子の教えのエッセンスは「無為にして為す」です。無為とは判りやすく言えば「自然体」ということであり、難しく言えば「空の境地」という事です。
即ち、「無為にして為す」とは「あれこれ考えず、妄念、雑念を払った状態で居る(行う)」という事でしょう。これについて五井先生は老子講義、第三十四講で「無為」についてこのように講じていらっしゃいます。
「無為とは一言にして申しますと、為にしない、ということなのです。 何をしよう、かにをしょう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。そう致しますと、無為を為すとは一体どんなことをするのかという疑間が当然起こってまいります。頭脳で考えないで一 体何ができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。」
五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念について第二十七講でこうおっしゃっています。
「人間というものは不思議なもので、思わなくともよいようなことが次から次へと頭脳を駆け巡り、一体こんな想念は、頭脳の中にどんな風に潜んでいたのかなあ、などと思ったりするものです。頭脳を駆け巡る想念というものほど、あてにならぬものはありません。人間を立派にするというより、人間を混乱させる要素のほうがよけいふくまれているのが、頭脳を駆け巡る想念波動です。それは、心配、不信感、嫌悪、不安定、等々、頭脳を駈け巡る想念は、得てして、神のみ心を離れたものが多いのです。」
ここで五井先生は端的に「神」とおっしゃっていますが、これを老子風に言えば「道」=宇宙の根本原理、天風師風に言えば「宇宙霊」、エックハルトトール流では「大いなる存在」と言い換えることが出来るのは言うまでもありません。
また第ニ講でもこう述べられています。
「人間の運命を複雑にしたり、乱したりするものは、人間各自の思いに他なりません。不幸も悲哀も悲しみも怒りも妬みも、それはすべて人間の思いの波動がそれを引き起こすのであって、人間自体に不幸や悲哀があるのではないのです。熟睡している時に、その人に何の不幸観や悲哀感がありましょう。睡っている時は、その人の肉体はそこに存在しながらも、その人の想念は、その人の肉体を離れているので、その人に何らの感情も起こらないからなのであります。とすると想念さえ、悲哀や不幸の波の中にいなければ、人間には悲哀も不幸もないということになるのです。そこで、仏教では、そうした想念をすべて無くしてしまう空の境地になる練習を主として行わせたのであります。」
老子の言葉を解説されながら、五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念が人間本来の奥深く存在する叡智へのアクセスを妨げているとして前述の「無為」の説明に続けてこう述べられています。
「頭脳で考えないで一体何ができるのであろう、普通の
はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を唯一無二の人間と想っています。しかし聖人は、人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、生命の現われる一つの場所であることを知っております。それは頭で知っているのではなく、事実として承知しているのです。そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、無限の段階において働きつづけているのであることも知っているのであります。ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを経巡っているような想念や知識をいくら振り迥していても、大宇宙の法則に乗り切ることはできない、大宇宙の法則に乗って生きてゆかなければ、この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけないと自らの体験で昔からの聖者たちは知っていたのです。」
ここで五井先生は「肉体は道具であり、場所であり、生命の流れは奥深いところから無限の段階で働き続けている」とおっしゃっています。
肉体だけが人間ではない
このことを第二十三講ではこのように語られています。
「人間というものは、実に不可思議なる存在でありまして、ここに肉体として存在しており、種々と想い巡らしているこの人間だけが全存在ではありません。全存在どころか、ほんの先端の現れでしかありません。凡夫というものは、この肉体人間だけを人間の全存在だと思いこんでいるのですから、眼先の事柄だけしか判りようがありません。
ところが真実の人間というものは、 この肉体より数等倍も秀れた機能をもつ体が幾層にも奥に奥に存在しておりまして、奥にゆくにつれて、徴妙この上ないものになってくるのであります。そしてその一番奥の存在が宇宙神のみ心の中心にある直霊(なおび)ということになるので、この直霊が神そのものということになるのであります。
ですから人間心の一番奥深いところは神そのものとなるのです。そしてそうした神そのものの働き場所を神界というのであり、次第に霊界、幽界、肉体界と、その働きのひびき(波動)が遅鈍になってくるのであります。」
第二十一講でも肉体頭脳の思慮分別が人間のレベルを低くしてしまっていると、このように述べられています。
「肉体人間というものは、只単なる先端の現れであって、人そのものではないということなのです。人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。
ですから、肉体身として現われている、一番粗い、波動の現れ、一番速度の遅い渡動の現れだけを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、スピードの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができる筈がありません。小さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。それは丁度、世界というものの全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧みないでいるとしたら、その人の智能程度は非常に低いものであることはあたりまえのことです。」
人間には肉体だけでなく、大きく分けても幽体(界)、霊体(界)、更に神体(界)があるという認識は信じられない人もいるでしょうが、現在の物理学では十一次元の多重次元の存在が認められています。むしろ五井先生がおっしゃっているような世界観、人間観の一部を科学が探求し始めていると考えても良いのではないでしょうか。
この人間存在の真実を「さとり」「直感」で知りえた聖人、賢者にとっては肉体身だけが人間だと思っている人は未開人に見えると、五井先生は上の講義にこう続けていらっしゃいます。
「人というものの全体を知っている真人や聖賢の眼からみますと、人というものが肉体身だけの者だと思っているような人々の在り方をみていると、丁度そうした未開人の生活をみているようなものにうつるのです。真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。」
よって、第三十四講で、過去の聖人、賢者が肉体身だけが人間であるとするものに、本来の人間の姿を知らしめようとして、「そこで、老子は無為と説き、釈尊は空と説き、イエスは神のみ心のごとく、といって全託を説いていたのであります。 無為を為し、空になり、全託の境地になりますと、肉体頭脳と奥深い大宇宙の根源の心、つまり宇宙神のみ心とが一つにすっきりとながりまして、宇宙神の智慧や能力が、そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。」と、大宇宙の根源の心、無限の叡智から、その力を智慧を引き出すための方法である無為、空、全託をお示しになったのだ、と五井先生はおっしゃっています。
このことを第二十一講では更にこのように述べられています。
「古来の聖賢はみな、肉体智を捨てよ、空の心になれ、といい、老子は無為の道を根本の教として説いているのであります。ところが人間は、頭脳で考えないでどうして行動ができようか、ということにひっかかってしまうのです。それは無理もありません。 肉体身の頭脳の他に考えの、湧いてくるところなどありはしないと思い込んでいるからなのです。
しかし 私がいつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉
身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
世界平和の祈りの意味
そして微妙な世界から最も素晴らしい知恵を引き出すための一番の方法をこう教えて下さっています。
「この智慧を一 番奥深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想念を一度全部投入してしまうことがよいのであります。そしてその智慧も世界人類の完全平和に役立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものずばりの唱え言が適当なのであります。言は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中からでてきた智慧であり行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのであります。老子の道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。」
老子の「無為」とぴったり一つになり、仏教でいえば「空の境地」にいたる方法が世界平和の祈りである、ということですが、同じ第二十一講の前文では、こう述べられています。
「人間の行為というものは、この肉体頭脳智で考えているうちは、どこかに抜けた、宇宙神、大生命のみ心から外れた行為となってしまうことが多いのです。ですから、各自の集団が、自分達の思想行為こそ、社会を善くし、世界を安定させる、と各自が想って、その活動をしているのですが、その各自の行動が、お互いにぶっかり合ってしまって、宇宙神のみ心の根本的な在り方である大調和を乱す争い事になってしまうのであります。そこで老子は声を大にして、無為にして為せ、無為にして治めよ、というのであります。 肉体の頭脳智に頼っている以上は、無為にはなり得ません。無為になるためには一度肉体頭脳智を何処かに無くさなければなりません。私はその方法を世界平和の祈りをもってしなさい、というのです。」
第二十三講でも、肉体頭脳を駆け巡る想念を「世界平和の祈り」に投げ入れることが凡人を容易に聖人にする道である、としてこう述べられています。
「人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。」(中略)
「肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。」
このように、五井先生の世界平和の祈りは普通の人(凡夫、凡人)が特別な修行なし、日常生活のまま、老子の「無為」、釈迦の「空」、イエスの「全託」に至る容易な方法なのである、と繰り返してお示しになっています。
また第八講でもう少し判りやすくこうもおっしゃっています。
一度に到底そのよう(※霊性心に基づいた生き方)になれる筈のものではないのですから、ひとまず、生命そのままのひびきを、本心(※霊性心)と致しまして、本心そのままの生き方をするのには、どうしても、頭脳を去来する想念が邪魔になります。そこで、頭脳を去来する想念のすべてを消えてゆく姿として、宇宙神のみ心の中にその瞬間瞬間に祈り言を通して入れてしまう練習をすることにするのです。
明目の仕事のこと、これからの計画のこと等々、すべて一度は宇宙神のみ心の中に入れきることにして、入れきった後で、今度は行為として現われた場合には、その行為をすればよい、ということにするのです。それを私は、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という祈り言に結びつけて説いているのであります。何や可と想いわずらう想念はすべて消えてゆく姿と思うと、心が静かになって、生命のひびきがすこやかになるのです。そうして遂には老子の説く無為の生き方のできる人間になってくるのであります。(※私の注記補足)
以前のブログ「霊性心開発の方法」でも全託や消えていく姿について少し違う角度から論じていますので、まだお読みでなければ、こちらも一読ください。
世界平和の祈りはエレベーター
先に紹介した第ニ十七講に続けて五井先生はこのようにおっしゃっています。
「これ(※世界平和の祈り)は無為にして為す、という老子の根本思想の世界に、祈り言をもって、昇りきってしまう方法なのであります。現代の人たちには、玄徳の心といっても、無為といっても、空といっても、その心の状態の素晴しさはわかっても、自分自身では、とてもとても達し得ない境地だと、はじめからその境地に昇ろうとする意志がないのです。ですから、あまりそうしたかけ離れた境地になることを、はじめからすすめたとて、とても無理なことなので、私はそうした素晴しい境地を、一応、老子や釈尊やイエスの言葉で示しておいて、そういう境地になれば素晴しいのだ、あなたも人類も共に本心のままの生き方のできるのは、一人でも多くの人が一日も早く、そうした境地になることなのだ、だがしかし、そういう境地には一朝一夕でとてもとてもなれるものではない。だから私が世界平和の祈りという、エレベーターをここに用意しておいたから、ひとまずこのエレベーターにお乗りなさい。あなたの知らぬ間に、高い境地に昇ってしまいますよ。という風に世界平和の祈りをすすめているわけなのです。」
ここでお示しに
っているように「世界平和の祈り」はちょうどエレベーターのようなものです。老子の無為、仏教の空は凡夫、凡人にとって、長い階段を一歩一歩上っていくような大変な修行です。
これに対して、世界平和の祈りは、難しい修行なしに高い境地に上っていく「エレベーターのような易行道」です。
これは私の実感でもあります。確かに世界平和の祈りによって自身の霊性の奥深くへのアクセス、霊性開発が可能になりました。
だから、多くの人にこの世界平和の祈りを行って頂きたいのです。それはこの平和の祈りが現世の様々な悩み、苦しみの根源からの解決法であり、最も根源からの創造性開発法と信ずるからです。
世界平和の祈り
(2018年6月追記 このブログで私は「霊性心開発」をテーマに一連の記事を書きつないできました。
これまでも繰り返し述べたように、霊性心開発とは「宇宙本体と繋がり、そこから本来人間が持っている内なる叡智、エネルギーを実生活に引き出す」ことを意味します。そしてその方法が無為であり、無念無想、空観です。
この無為、無念無想、空観について書いた最初の記事は下の中村天風師のインドでの悟りで、その中で天風師と師匠のカリアッパ先生とのやり取りを紹介しています。
天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り
カリアッパ先生は無念無想を体験した天風師にこう言われました。
「たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」
この言葉の意味は
「無念無想になれば、そこに人間が本来持っている内なるエネルギーが泉のごとく湧き出すんだ。日頃は雑念、妄念の類がその出口を塞いでいるから出ないんだ。」
ということです。
中村天風師はこの体験を紹介されて、このように述べられています。
「人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。
とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。
ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。」
ここで天風師が述べられたのが、老子の言う「無為」の生き方ですが、私は「世界平和の祈り」で、天風師がおっしゃっているトランス状態に容易に入り、その先の霊性境地に自然に至ることが出来るということを体感しました。
天風師のおっしゃる人間と神、造物主を結びつけるスイッチは私にとって世界平和の祈りだったのです。
このことを念頭におき、上の記事や下の関連記事をお読み頂ければ幸いです。追記 終わり)
五井先生のご講話
さて、五井先生のご講話が沢山YouTubeに上げられています。その中から今回のブログに関係が深いご講話を2つ紹介させて頂きます。興味を持たれた方は、これらを一度お聴きください。
以下はご自身の教えの概略について語っていらっしゃる10分程度の講話です。
また以下は今回のブログのテーマである無為、空についての38分のご講話です。
今回の記事が読んでくださ
皆さんのお役に立てば幸いです。
関連記事
霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
参考記事
世界平和の祈りの行じ方
天風師が説く「5つの心」① 霊性心とは何か
天風師が説く「5つの心」② 霊性心とは何か
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」② 甲田光雄先生と舩井幸雄先生、そして世界平和の祈り
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法
体験談①至高体験と妖怪との遭遇で知ったこと
体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い
体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと
その他 当ブログ記事一覧
本当に洒落にならない至高体験
がんの自然退縮〔22〕
〔20〕の至高体験は自己と世界の融合を特徴とします。二分法的概念的思考(分別知)が消失するので、自我が膨張し、宇宙あるいは「神」と一体化し、ある時は無限の光の輝きを伴いながら至福感を感じるのです。
性的快感になぞらえると、論理的思考に関与する右脳・下前頭回(Inferior frontal gyrus) の働きが弱まると同時に、善悪等二分法的な判断をする際に活性化する脳領域である後帯状皮質(Posterior cingulate cortex)と島皮質(Insular cortex)(男性では上側頭溝(Superior temporal sulcus))の働きが特に強く抑制され、副交感神経が極度に賦活化されます.交感神経が緊張する「不安」とは対処的な意識状態です。そしてオーガズムに達すると一気に交感神経が活性化され、アドレナリンとドーパミンが放出されるのです。
至高体験における流涙はこの交感神経の緊張をリセットさせるものとみなすことができましょう。アセチルコリンが多量に放出され、Tリンパ球が活性化されるものと推測されます。
瞑想しているからガンにならないというわけではありません。
瞑想三昧の生涯を送った南インドの聖者と呼ばれたラーマナ・マハーリシは胃がんとなり、毎晩、「痛い」と大声で叫ぶので、お弟子さん達は困ったそうです。
覚者と呼ばれた人でも、がんで亡くなった人は多いです。ラーマ・クリシュナは咽頭がんで、クリシュナ・ムルティはすい臓がん・・・・。
瞑想指導の第一人者と言われたY氏も60歳台初めにがんで亡くなりました。
交感神経のリセットができなかったせいでしょうか。
もっとも、生死を超越した彼らにとってガンで死ぬのは何でもないことではなかったかと思われます。クリシュナ・ムルティはガンになったことがわかったとき、「自分は何か悪いことをしただろうか」とつぶやいたそうですが。
あなたが創った場所もきっと誰かの思い出の至高体験になる。
祈りとは何か
前回のつづきです。五井昌久先生は「祈りについて」このようにおっしゃっています。
先生のご著書「聖書講義」からの引用です。
宗教というものが、どのような宗教でも、種々と形は違いますが、祈りを重要視していない宗教はありません。仏教の坐禅などは、祈りとは違ったもののようにみえますが、やはり祈りの姿なのです。
祈りとは常に私が申しますように、汚れや濁り(にごり)や凝り(さわり)という、生命の働きを損う(そこなう)あらゆる状態から超越して、生命そのままを現わすための方法です。
生命そのままとは、生命は神より来ているものですから、神と一つにつながって、神の生命がそのままそこに現われた状態をいうのであります。
ですから仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのものであるわけです。
ここで五井先生は、座禅観法=「無念無想による空観」も「祈り」も本質において同じものである、とおっしゃっています。そして、生命の本質は神(=大いなる存在)であり、その本質をそのままこの現実生活(肉体生活)に現すための方法が祈りであり、座禅観法であるとされています。
前回紹介しましたが、エックハルト・トールも「さとり」とは何かについて
「『大いなる存在』こそが、『人間の本質』で、わたしたちは、それをじかに感じられるのです。『わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!』という感覚がそれです。『わたしはOO(名前、職業など)です』という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。」
と述べていますが、これは五井先生のおっしゃっているところと同じ意味でしょう。
更に五井先生は「祈り」におけるありがちな誤認識についてこう述べられます。
ところが民間で行なわれている祈りというものは、ともすると、そうした祈りの本質を外れて、ただ自己の欲望達成のために、自己以外の力にすがりつこうとする状態と、誤り考えているようなのです。
現世利益のためには、お蟇(がま)様でも、お狐様でも、お蛇様でもなんでもかまわず、お願いしますと掌を合わせること、それが祈りだと思っているのですが、とんでもない間違いでありまして、そういう心の状態は、祈りとはなんら関係ない行為であります。
何故ならば、祈りとは生命の本質を現わすためのものであり、生命を宣り(のり)出すためのものであり、業想念をふりはらって、神との一体化を成就するための行為であるのですから、ただ単に肉体生活の利害関係を他の力にすがって有利にしようなどという行為が、祈りの本質であるわけがありません。
仏陀(釈尊)はそういう行為を嫌われて、自己以外の何々様という神様らしくよそおう他の力にすがらぬようにと、自己内部の仏を見出す、坐禅を教えたのであります。
ここで、本当の祈りと誤った祈りの違いはどこにあるのかということを五井先生は述べられています。
目先の利己的な利益を求めて、蝦蟇(ガマ=カエル)を拝んだり、キツネを拝む「愚」について上げられていますが、たとえそれがイエスや釈迦を対象にしたものであったとしても、自己の肉体欲望のためだけの祈りは『本当の祈り』でないということもおっしゃっているのでしょう。
何故ならそのような肉体的欲望の想念行為こそが、病や不幸を根本から解決する力の源であり、自己の本質でもある「大いなる存在」、「神」、「宇宙霊」からの光を妨げてしまうものだからです。
更に五井先生は「祈りについて」、釈尊とイエスの教えを対比され、このように続けられます。
肉体を超越した自己の奥深くに働いている自己の本心が即ち仏であり、神であるのだ、ということを、自己の内面を一心に見つめることによって悟る、という方法を釈尊は弟子たちに教えているのです。
ところがイエスは、釈尊と同じように、「我が内に神はおわす」と教えると同時に、天にまします我等の神よ、というように、肉体人間を離れた天のほうにおわす、絶対者である神をあがめることも教えているのであります。どちらかというと、我が内におわす神、という、釈尊的な教えよりも、より多く、天にまします神、という、肉体人間を遠く離れた、至上至尊の存在者としての神を教えることが多かったのです。
ここで五井先生が述べられているのが、「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」という今回のブログのテーマにかかわる部分です。
自力行と他力行
一言で言えば、無念無想の空観(内観=釈尊的な教え)は自身の意志力で「大いなる存在」にアクセスする方法であり、これは自力行と呼ぶことができるでしょう。
座禅観法で真の救いを体得した人はいらっしゃるとは思いますが、決してその数は多くなく、普通の生活人、凡人凡夫にとってその実行は容易ではありません。
これに対して祈りとは、神仏の力を借りるという点で他力行と呼んでよいかと思います。
少しニュアンスは違いますが、「南無阿弥陀仏」という称名に力がある理由を、過去のブログに書きました。参考までそれを以下に引用します。ここで書いたことが他力行の効用です。
霊性心開発の方法① 五井先生の易行道
五井昌久先生は著書(生きている念仏)の中で、南無阿弥陀仏を唱える称名念仏で悟りを得た「妙好人(みょうこうにん)」を紹介しながら、このようにおっしゃっています。
「現今の人たちは、阿弥陀様という仏様が、西方極楽浄土におわして……ということは、とても信じ切ってはおるまいと思います。
もっとも、才市翁の念仏も、何も弥陀を西方極楽浄土にあると思っているのではなく、宇宙に満ち充ちている神として観じていた、いわゆる親様として観じていたのでありますから、肉体のあるそのままで、神我一体の境地になれたのであり、安心立命し得たのであります。」
才一翁とは「妙好人」の一人です。妙好人とは全く普通の市井の庶民が念仏に専心することで、高僧、名僧以上の高い悟りの境地に入った人のことを言います。
五井先生は前述の著書でこの妙好人の例を幾人か上げられ、凡夫が悟りに至る道を平易な言葉で解説されていますが、上の五井先生の言葉をこのブ
グのテーマである「霊性心」という観点で解釈すれば、念仏に専心することで雑念妄念を払い、霊性心を発現し、更に「神我一体」「安心立命」の境地に至ったと読むことが出来ます。
(中略)
更に五井先生はこのようにおっしゃいます。
「と致しますと、この阿弥陀仏は、何も阿弥陀仏でなくとも、何仏でもよく、神という言葉でもよいわけで、法然や親鸞が、西方極楽净土と場所を定めたのは、仏説の法蔵菩薩の四十願の、自分が西方極楽浄土に阿弥陀仏という仏になって、すべてを救う、ということをとらえたわけで、実際に法蔵菩薩が存在した、しないは勿論、西方でも東方でも法然や親鷺にとってはよかったわけで、只(ただ)、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。
それでなければ、南無釈迦牟尼仏と念じさせたわけであります。(中略)南無阿弥陀仏だろうが、南無釈迦仏だろうが、どちらでも一向にさしつかえないのです。」 引用終わり
ここで大事なことは「只、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の大光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。」という部分です。
ここで五井先生は、弥陀称名の祈りに無念無想の空観(=座禅観法による内観)同様の効果があり、万人が実行し得る易行道であることをお話になっています。
これと同様のことを、五井先生は質問「お釈迦様の教えと五井先生の統一はどう違うのですか?」への答えとしてこう述べられています。
お釈迦様は素晴らしい方です。教え方としては、自分が自分を悟るわけですね。自分の中の仏を出すように、坐禅観法するわけです。
お釈迦様!と阿難みたいにお釈迦様ばかり思っている人は、これは他力ですから、お釈迦様の光がまるっきり入ってくるわけです。
しかし、お釈迦様!と思わないで、ただ方法だけ(座禅観法)をやっている人がありますが、この人たちはあくまで自力でやらなければならないわけです。(中略)お釈迦様が自力というわけではないんです。お釈迦様を思えば他力になるんだけれど、お釈迦様を思わない場合に、方法だけやる場合に自力になってしまう。
ここにある阿難とは釈迦の十大弟子の一人で、多聞第一と呼ばれ、釈迦の教えを後世に伝える中心的役割を担った人物です。
この阿難のように釈迦にすっかり自分を委ねてしまえば、そこに自身の本体である内在神、大いなる存在が現れてくる、ということを五井先生はおっしゃっています。
もちろん、委ねる対象は釈迦である必要はありません。イエスに自身の想念をすっかり委ねてしまえば、同じこと、イスラム教のアッラーであっても、ヒンドゥー教のブラフマンであっても、人間と神が本来一つのものであることを説く宗教、教えはすべて同じことでしょう。
同じことなのですが、悲しいかな、ここに肉体世界の「個の思い」「妄想念」が加わると、前回のブログで紹介したようなことが起こります。
多くの人々は、この言葉の背後にある、「広大無辺の果てしなさ」に気づかないのに、あたかも「神」を知りつくしているかのように、この言葉を使っています。「神」の存在を、思いこみから否定しているのも、これまた誤解です。このような誤解が、「わたしたちの神はほんもので、あなたの神はにせものです」といった発言や、ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」などを生むもとになっているのです。(エックハルト・トール)
この様な誤認識の果てが、異教徒への排斥や攻撃、更には大規模な戦争まで引き起こしてしまうのですから、愚かなことです。
少し観点は違いますが、興味本位や肉体の現世利益、利己的願望だけを求めて、神を求める誤りを五井先生はこう述べられています。(老子講義 )
どんなに神様を求めていても、それが何等かの興味であったら、それはもう純粋に神を求める態度ではなくなるのです。神を求める想いは純粋でなければなりません。自己の本心(仏性)開発の為にこそ神を求めるのです。(中略)
老子はそうした真理を実によく知っていますので、神霊現象のようなことは殆んど説かずに、一直線に神のみ心の深い奥底に人々を導き入れようとしているのであります。
善いことにも悪いことにも、すべての事柄に把われ(とらわれ)させないように、把われの元である想念波動を、どこかへ消し去ってしまおうとして、無為にして為せ、というのであります。
神といえば、神に把われる、仏といえば仏に把われる、そこで、想念行為と直結している道という言葉で、人間の生き方を説いているのです。道といえば、神に姿を求めるような把われ方はしないからなのです。
すべての把われから解放された時、人間ははじめて自由自在の身になり得るわけです。その一番やさしい方法、消えてゆく姿という言葉をつかって、神の道に導き入れているのが、私の説いているところなのです。
ここで五井先生はその本質において釈尊やイエスと同じことを説いた老子が、神仏という言葉や概念を敢えて遠ざけられた理由を語っておられます。
祈りはここで言われるように純粋無雑に神仏を求めるものでないと、自身に内在する霊性、神性を現すことがかなわないということです。
純粋無雑に神仏を求めるというのは、利己的な肉体的願望に関するお願いや自分勝手な依存とは無縁のものです。
生かされていることへの感謝、四六時中守って下さっている守護の神霊への感謝など、不足の思いからの願望でなく、既に満たされていることへの感謝が神仏を求める気持ちの根底にあるときに純粋無雑な「祈り」が生まれます。
そのような純粋無雑に神仏を求める心があれば、その祈り心の赴く(おもむく)先に、必ず霊性、神性が発現されます。
何故ならその時に座禅観法の求める理想の空観と同様の無念無想の境地に至ることができるからです。
冒頭紹介した五井先生の言葉「仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのもの
である」の意味はこのように考えると理解いただけるのでないかと思います。
ただし現代社会に生きる私たちにとって、阿弥陀仏は勿論のこと、釈迦やイエスにしても純粋無雑にこれを求めるということはなかなか容易ではありません。
そこで五井先生が提唱されたのが「世界平和の祈り」です。
現代を生きる人類のための世界平和の祈り
五井先生は「世界平和の祈りで、なぜ救われるのですか?」という質問に答えられて、このようにおしゃっています。
まず大概の人が、個人の私というものと、世界人類というものとは別のような感じがしている。ふつう何も関係がないような感じがしています。自分一人がどうこうしたって、世界が動くものではないとか、すべては政治の責任とかいって、自分とは関係ないような感じがしている。
ところが、個人個人が集まって国家になり、人類になるわけですよね。
だから個人一人の動きというものは、大変な力を持っているわけです。皆さん方一人一人の世界平和の祈りは、大きな大きなひびきをもって、世界中に広がるわけなのです。
ですから皆さん一人一人が大変な役目を持っている、ということは確かなことなのです。
そのように、世界平和の祈りというものは、世界人類のためにやるのだけれども、それは取りも直さず、自分のためにもなるのです。
自分の中には、病気だとか不安だとか、臆病な想いだとか、妬みの想いだとか、恨みの想いだとか、そういういろんな業想念があります。
それが世界平和の折りを祈ると、世界平和の祈りが持っている大光明の中で消されてゆくわけです。
消えてゆく姿のものはどこへゆくかというと、救世の大光明の中へ消されてゆくのです。業想念が消えてゆくと、何か起こるかというと、人間は本来神の分け生命でしょ。神の生命そのものですね。だから本来の神の生命がそのまま生きてくる。
年中、神の叡智や能力が入って来ているんですよ。
それを人間は業想念でふたをしてしまって、拒絶しているわけなんです。
それで頭の中に溜まっている蓄電池(潜在意識、幽体)の想いでもって、ああじゃない、こうじゃない、とやっているんです。
それを常に直通する、天地を貫く生命の波にすればいいわけです。
そのために、ああじゃない、こうじゃないという想いをなくす。それが「空になれ」というお釈迦様の教えだったり、「無為にしてなせ」という老手の教えだったりするわけです。
だからこの業想念を取っちゃうんです。それが消えてゆく姿です。
過去世からの業想念行為が、運命となって現われて、病気になったり、不幸になったりするわけです。病気になって現われた、嫌な想いになって現われた、不幸になって現われた時に、「ああ、これは消えてゆく姿なんだな。世界人類が平和でありますように、みんなが平でありますように」という想いで祈りますと、その悪いことが祈りの中で消えてゆくのです。
消してくださるのは救世の大光明、神々なのです。そうして消えてゆくに従って「世界人煩が平和でありますように」という愛の気持ち、愛の光明波動がそのまま自分の中に残るわけです。自分の今まであった悪いものは消えて、新しく大光明のプラス面が入って来て(もともとあったんですけれど)、記録されてゆくわけです。
それを繰り返し繰り返しやっていれば、いつの間にか過去世の悪いものはなくなって、世界平和の祈りの愛の気持ち、大光明のひびきが自分の心をいっぱいにしてゆくわけです。
だから、世界平和を祈ることは、自分のために祈ろうと思わなくても、世界人類のために祈っても、自分のためになるわけなのです。自分も救われると同時に、世界人類も救われるんだ、というふうに広い気持ちを持って、気楽に、しかし真剣にやってください。
ここで五井先生がおっしゃっていることが現代に生きるわれわれ凡夫、凡人にも容易に取り組める祈りの方法とその効果なのです。
今回のブログテーマ「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」で私が述べたかったことはこの五井先生の質問への回答にあります。
人間とは何か 人を構成する4つの体
ここで、過去数回のこのブログで書いてきたことを整理して、今回のテーマについてまとめてみたいと思います。
上の図は下のリンクのブログで説明したことがある五井先生の最初のご著作である「神と人間」にある図です。
神と人間
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
この図にあるように人間という存在は大きく分けても神体、霊体、幽体、肉体という4つの体を持っており、人間の幸不幸など種々の運命は幽体(潜在意識)に記録されている過去の想念行為がその原因となっており、この幽体の大掃除が病や不幸など、命の改善に不可欠であるということを上のリンクで説明しました。
五井先生はこのようにおっしゃっています。
いつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。
肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉体身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
ここでは智慧とおしゃっていますが、病や不幸を根本から解決する力、原動力と言い換えることもできます。また同じことをこのようにもおっしゃっています。
人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。
いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。
人間には人生における種々の問題を根本から解決する「内在力」が備わっているのですが、肉体頭脳の力だけでこれを解決しようとすると、肉体頭脳の雑念妄念がこの力の入口を塞いで(ふさいで)しまうことになるのだ、ということを五井先生も天風師もまた釈尊やイエスも繰り返し、繰り返し教えて下さっています。
このブログで何度も紹介してきた天風師の以下の言葉もこの事をおっしゃったものです。
人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。
とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。
天風師の教えのエッセンス
天風師のおっしゃっていること、教えを先の「神と人間」の中の図で説明するとこのようになるでしょうか。
天風師の教えの柱である観念要素の更改とは顕在意識の消極的想念を積極的なものに意志の力や暗示の力で置き換えていくことを意味します。今の言葉で言えば「ポジティブシンキング」です。
しかし、これだけでは過去(過去世)からため込んできた誤った想念行為の記録(ゴミ=仏教で言えば貪瞋痴の三毒)を簡単に消し去ることは出来ません。
これらのゴミをすっかり焼却してしまう大掃除ができるのが神性、霊性からの光(波動)による浄化で、これを可能にするのが安生座打法=無念無想の空観なのです。
卑近な例でたとえれば、ソニッククリーナーを思い出してください。
メガネ屋さんによく置いてある器具ですが、水や溶剤に超音波を当て、その微細な振動でメガネや宝石などの掃除がしにくいところの汚れをはがしてしまいます。
これと同じように、霊性、神性の微妙かつ強力な光(波動)で幽体(潜在意識)の汚れを浮かせ、消してしまうと考えればよいと思います。
霊性、神性の光(波動)にはその力があります。
その光を人間存在の奥から肉体世界に引き出す方法が無念無想の空観で、天風師はどちらかというと自力でこれを行うことを教えられています。
五井先生の世界平和の祈りは溶鉱炉
これに対して五井先生は他力行です。
先生は「人間にとって真の幸福とは何ですか?」という質問に対して、このように述べられています。
本当の幸福というのは、一言でいえば、人間の本心を顕すということ、自分自身を知るということです。ソクラテスじゃないけれど、「汝自身を知れ」というように、自分自身を知ることが一番幸せなんです。
自分の本体が分かり、本質が分かるということほど、幸せなことはありません。
もう不退転で、驚くことが何にもなくなるわけです。それには何も付け加えることがないんですよ。それはどういうことかというと、まぁ、自分というものは神様から無限に生命の波を頂いている。いわゆるエネルギーがエネルギー源から常に流れてきて、必要な物はすべて与えられるんだということを知ることなんですね。
それが一番幸福なんです。それを外から与えられるという形で思うからいけないけれど、内から-もっと言い換えると、人間というものは、本当はこの五尺何寸という、そういう目に見えている形じゃないんですよね。波勣なんです。光の波動なんだけれども、ふつう肉体にいる人は光と業想念の黒雲の波動が混ざって、少しまだらになっている。(皆さんはもうまだらじゃなくて白光になっているんですよ。)
その光の波動は大生命の根源から流れてくる。宇宙子科学でいえば、宇宙子波動です。宇宙子がたくさん集まって、この生命体になっているわけですね。だから神様のほうに向いて
いさえすれば、神様につながってさえいれば、その人に必要なものは何でも与えられる。
(中略)
そこでまた繰り返すけれども、お釈迦様は空になれ、空になれ、って坐禅させたんだし、老子様は無為だ、無為だ、無為にして為せ、ってやっているわけです。
だけど空になれ、と言ってもなかなか空になれないし、無為になれ、と言っても無為になれないから、私はみんな現れてくるものは消えてゆく姿ですよ、と言っているわけです。
消えてゆく姿なんだからそれに把われることはない。しかし把われたら把われたでいいから、把われた想いを、もっと大きな高い所に、神様の中に入れてしまいなさい。ただ神様、神様と言っても神様は見えない。どこにいるか分からない。「神様どこです? 私の想いをとってください」じゃ分からない。
そこで「世界界人類が平和でありますように」という神様のみ心ですね、神様のいわゆる理念といいますか、神様のみ心の中の世界人類が平和である、という所へこちらが「世界人類が平和でありますように」って持っていって入れてしまいなさい、というわけですね。
どんなことが出てきても入れてしまいなさい。貧乏が出てこようと、病気が出てこようと、短気が出てこようと、妬みが出てこようと、そういうものは、みんな「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私どもの天命が完うされますように」って、そこへ入れてしまいなさい、と、言っているわけです。
楽なもんですよ。入れてしまうと、邪魔する想いが、その目的の中へ入ってしまうでしょ。
世界平和の祈りというのは、大光明、神様のみ心だから大光明です。だから想いをどんどんどんどん消してくれるわけですよ。
ゴミを持って行って、捨てればいいでしょ。そうすると空になるでしょ。それと同じで、神様は、もうパーッと燃え上がっている溶鉱炉だと思えばいい。鉄でもなんでも溶かしちゃう。そういう溶鉱炉だと思えばいいですよ。
その中に、世界人類が平和でありますように、って入れれば、溶鉱炉がいっぱいに燃え上がっているんだから、その中にどんなゴミでも、どんなものでも投げ込めば、みんなパーッと燃えて光になっちゃう。
そういうふうに思えばいいです。本当にそうなんだから。だから、どんな悩みがあろうと、貧乏があろうと、病気があろうと、自分がいけないと思う心があっても、あいつは嫌な奴だと思う心があっても、そんなものはみんな世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい。
世界平和の祈りの大光明が、溶鉱炉がみんな焼き尽くしてきれいにしてくれる、光一元にしてくれる。
そうすると、それがまたこっちへ流れてきて、こっちは光り輝く人間になるんだから。邪魔な想いをそこに捨てなさい。「消えてゆく姿で世界の祈り」と一生懸命、私が汗流して説いているわけです。
この五井先生の教えを先と同じように図示すれば以下のようになるでしょうか。
この図のように「消えてゆく姿で世界平和の祈り」とは肉体から神体までパイプを通すようなものです。その光のパイプから霊性、神性の光が幽体、肉体に流れ込んでくると考えればよいでしょう。
この霊性、神性の光の波動が幽体の汚れをすっかり消し去り、溶鉱炉の火のように燃やし尽くすのです。
五井先生は同様の事を、老子講義の中でこう述べられています。
肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。
法華経の結経「観普賢菩薩行法経」には有名な一説があります。
一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す
お分かりでしょうが、こういう意味です。
人間の一切の苦悩、不幸は、皆、誤った想念、妄想念によって生ずるのである。
これを正すには、ただ端座して、人間の本質、実体を想えばよい(無念無想の空観、または純粋無雑の祈り)。
そうすれば、過去の誤てる想念、行為によって生じた因縁因果の罪は、霜(しも)や露(つゆ)のように、全て太陽(霊性、神性)の光によって消え去るのである。
長くなりましたので、今日の結論です。
上の普賢経の一節を実践するための最も容易な方法が消えてゆく姿で世界平和の祈りである、ということが今日のこのブログの結論で、皆さんにお伝えしたいことです。
次回はこのブログの読者の方がお仕事にされたり、興味を持たれているが多い「引き寄せの法則」に関して書いてみたいと思います。
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