上質な時間、至高体験の洗練

上質な時間、至高体験の洗練

至高体験の新製品がラインアップ

がんの自然退縮〔22〕

 〔20〕の至高体験は自己と世界の融合を特徴とします。二分法的概念的思考(分別知)が消失するので、自我が膨張し、宇宙あるいは「神」と一体化し、ある時は無限の光の輝きを伴いながら至福感を感じるのです。

性的快感になぞらえると、論理的思考に関与する右脳・下前頭回(Inferior frontal gyrus) の働きが弱まると同時に、善悪等二分法的な判断をする際に活性化する脳領域である後帯状皮質(Posterior cingulate cortex)と島皮質(Insular cortex)(男性では上側頭溝(Superior temporal sulcus))の働きが特に強く抑制され、副交感神経が極度に賦活化されます.交感神経が緊張する「不安」とは対処的な意識状態です。そしてオーガズムに達すると一気に交感神経が活性化され、アドレナリンとドーパミンが放出されるのです。

 

至高体験における流涙はこの交感神経の緊張をリセットさせるものとみなすことができましょう。アセチルコリンが多量に放出され、Tリンパ球が活性化されるものと推測されます。

 瞑想しているからガンにならないというわけではありません。

瞑想三昧の生涯を送った南インドの聖者と呼ばれたラーマナ・マハーリシは胃がんとなり、毎晩、「痛い」と大声で叫ぶので、お弟子さん達は困ったそうです。

 覚者と呼ばれた人でも、がんで亡くなった人は多いです。ラーマ・クリシュナは咽頭がんで、クリシュナ・ムルティはすい臓がん・・・・。

 瞑想指導の第一人者と言われたY氏も60歳台初めにがんで亡くなりました。

交感神経のリセットができなかったせいでしょうか。

もっとも、生死を超越した彼らにとってガンで死ぬのは何でもないことではなかったかと思われます。クリシュナ・ムルティはガンになったことがわかったとき、「自分は何か悪いことをしただろうか」とつぶやいたそうですが。

至高体験という劇場に舞い降りた黒騎士

祈りとは何か

前回のつづきです。五井昌久先生は「祈りについて」このようにおっしゃっています。

先生のご著書「聖書講義」からの引用です。

宗教というものが、どのような宗教でも、種々と形は違いますが、祈りを重要視していない宗教はありません。仏教の坐禅などは、祈りとは違ったもののようにみえますが、やはり祈りの姿なのです。

祈りとは常に私が申しますように、汚れや濁り(にごり)や凝り(さわり)という、生命の働きを損う(そこなう)あらゆる状態から超越して、生命そのままを現わすための方法です。

生命そのままとは、生命は神より来ているものですから、神と一つにつながって、神の生命がそのままそこに現われた状態をいうのであります。

ですから仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのものであるわけです。

ここで五井先生は、座禅観法=「無念無想による空観」も「祈り」も本質において同じものである、とおっしゃっています。そして、生命の本質は神(=大いなる存在)であり、その本質をそのままこの現実生活(肉体生活)に現すための方法が祈りであり、座禅観法であるとされています。

前回紹介しましたが、エックハルト・トールも「さとり」とは何かについて

「『大いなる存在』こそが、『人間の本質』で、わたしたちは、それをじかに感じられるのです。『わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!』という感覚がそれです。『わたしはOO(名前、職業など)です』という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。」

と述べていますが、これは五井先生のおっしゃっているところと同じ意味でしょう。

更に五井先生は「祈り」におけるありがちな誤認識についてこう述べられます。

ところが民間で行なわれている祈りというものは、ともすると、そうした祈りの本質を外れて、ただ自己の欲望達成のために、自己以外の力にすがりつこうとする状態と、誤り考えているようなのです。

現世利益のためには、お蟇(がま)様でも、お狐様でも、お蛇様でもなんでもかまわず、お願いしますと掌を合わせること、それが祈りだと思っているのですが、とんでもない間違いでありまして、そういう心の状態は、祈りとはなんら関係ない行為であります。

何故ならば、祈りとは生命の本質を現わすためのものであり、生命を宣り(のり)出すためのものであり、業想念をふりはらって、神との一体化を成就するための行為であるのですから、ただ単に肉体生活の利害関係を他の力にすがって有利にしようなどという行為が、祈りの本質であるわけがありません。

仏陀(釈尊)はそういう行為を嫌われて、自己以外の何々様という神様らしくよそおう他の力にすがらぬようにと、自己内部の仏を見出す、坐禅を教えたのであります。

ここで、本当の祈りと誤った祈りの違いはどこにあるのかということを五井先生は述べられています。

目先の利己的な利益を求めて、蝦蟇(ガマ=カエル)を拝んだり、キツネを拝む「愚」について上げられていますが、たとえそれがイエスや釈迦を対象にしたものであったとしても、自己の肉体欲望のためだけの祈りは『本当の祈り』でないということもおっしゃっているのでしょう。

何故ならそのような肉体的欲望の想念行為こそが、病や不幸を根本から解決する力の源であり、自己の本質でもある「大いなる存在」、「神」、「宇宙霊」からの光を妨げてしまうものだからです。

更に五井先生は「祈りについて」、釈尊とイエスの教えを対比され、このように続けられます。

肉体を超越した自己の奥深くに働いている自己の本心が即ち仏であり、神であるのだ、ということを、自己の内面を一心に見つめることによって悟る、という方法を釈尊は弟子たちに教えているのです。

ところがイエスは、釈尊と同じように、「我が内に神はおわす」と教えると同時に、天にまします我等の神よ、というように、肉体人間を離れた天のほうにおわす、絶対者である神をあがめることも教えているのであります。どちらかというと、我が内におわす神、という、釈尊的な教えよりも、より多く、天にまします神、という、肉体人間を遠く離れた、至上至尊の存在者としての神を教えることが多かったのです。

ここで五井先生が述べられているのが、「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」という今回のブログのテーマにかかわる部分です。

自力行と他力行

一言で言えば、無念無想の空観(内観=釈尊的な教え)は自身の意志力で「大いなる存在」にアクセスする方法であり、これは自力行と呼ぶことができるでしょう。

座禅観法で真の救いを体得した人はいらっしゃるとは思いますが、決してその数は多くなく、普通の生活人、凡人凡夫にとってその実行は容易ではありません。

これに対して祈りとは、神仏の力を借りるという点で他力行と呼んでよいかと思います。

少しニュアンスは違いますが、「南無阿弥陀仏」という称名に力がある理由を、過去のブログに書きました。参考までそれを以下に引用します。ここで書いたことが他力行の効用です。

霊性心開発の方法① 五井先生の易行道

五井昌久先生は著書(生きている念仏)の中で、南無阿弥陀仏を唱える称名念仏で悟りを得た「妙好人(みょうこうにん)」を紹介しながら、このようにおっしゃっています。

「現今の人たちは、阿弥陀様という仏様が、西方極楽浄土におわして……ということは、とても信じ切ってはおるまいと思います。

もっとも、才市翁の念仏も、何も弥陀を西方極楽浄土にあると思っているのではなく、宇宙に満ち充ちている神として観じていた、いわゆる親様として観じていたのでありますから、肉体のあるそのままで、神我一体の境地になれたのであり、安心立命し得たのであります。」

才一翁とは「妙好人」の一人です。妙好人とは全く普通の市井の庶民が念仏に専心することで、高僧、名僧以上の高い悟りの境地に入った人のことを言います。

五井先生は前述の著書でこの妙好人の例を幾人か上げられ、凡夫が悟りに至る道を平易な言葉で解説されていますが、上の五井先生の言葉をこのブ
グのテーマである「霊性心」という観点で解釈すれば、念仏に専心することで雑念妄念を払い、霊性心を発現し、更に「神我一体」「安心立命」の境地に至ったと読むことが出来ます。

(中略)

更に五井先生はこのようにおっしゃいます。

「と致しますと、この阿弥陀仏は、何も阿弥陀仏でなくとも、何仏でもよく、神という言葉でもよいわけで、法然や親鸞が、西方極楽と場所を定めたのは、仏説の法蔵菩薩の四十願の、自分が西方極楽浄土に阿弥陀仏という仏になって、すべてを救う、ということをとらえたわけで、実際に法蔵菩薩が存在した、しないは勿論、西方でも東方でも法然や親鷺にとってはよかったわけで、只(ただ)、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。

それでなければ、南無釈迦牟尼仏と念じさせたわけであります。(中略)南無阿弥陀仏だろうが、南無釈迦仏だろうが、どちらでも一向にさしつかえないのです。」 引用終わり

ここで大事なことは「只、人々の心を種々と動播させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念から、想念を神仏のふところ、神仏の大光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思ったからに違いありません。」という部分です。

ここで五井先生は、弥陀称名の祈りに無念無想の空観(=座禅観法による内観)同様の効果があり、万人が実行し得る易行道であることをお話になっています。

これと同様のことを、五井先生は質問「お釈迦様の教えと五井先生の統一はどう違うのですか?」への答えとしてこう述べられています。

お釈迦様は素晴らしい方です。教え方としては、自分が自分を悟るわけですね。自分の中の仏を出すように、坐禅観法するわけです。

お釈迦様!と阿難みたいにお釈迦様ばかり思っている人は、これは他力ですから、お釈迦様の光がまるっきり入ってくるわけです。

しかし、お釈迦様!と思わないで、ただ方法だけ(座禅観法)をやっている人がありますが、この人たちはあくまで自力でやらなければならないわけです。(中略)お釈迦様が自力というわけではないんです。お釈迦様を思えば他力になるんだけれど、お釈迦様を思わない場合に、方法だけやる場合に自力になってしまう。

ここにある阿難とは釈迦の十大弟子の一人で、多聞第一と呼ばれ、釈迦の教えを後世に伝える中心的役割を担った人物です。

この阿難のように釈迦にすっかり自分を委ねてしまえば、そこに自身の本体である内在神、大いなる存在が現れてくる、ということを五井先生はおっしゃっています。

もちろん、委ねる対象は釈迦である必要はありません。イエスに自身の想念をすっかり委ねてしまえば、同じこと、イスラム教のアッラーであっても、ヒンドゥー教のブラフマンであっても、人間と神が本来一つのものであることを説く宗教、教えはすべて同じことでしょう。

同じことなのですが、悲しいかな、ここに肉体世界の「個の思い」「妄想念」が加わると、前回のブログで紹介したようなことが起こります。

多くの人々は、この言葉の背後にある、「広大無辺の果てしなさ」に気づかないのに、あたかも「神」を知りつくしているかのように、この言葉を使っています。「神」の存在を、思いこみから否定しているのも、これまた誤解です。このような誤解が、「わたしたちの神はほんもので、あなたの神はにせものです」といった発言や、ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」などを生むもとになっているのです。(エックハルト・トール)

この様な誤認識の果てが、異教徒への排斥や攻撃、更には大規模な戦争まで引き起こしてしまうのですから、愚かなことです。

少し観点は違いますが、興味本位や肉体の現世利益、利己的願望だけを求めて、神を求める誤りを五井先生はこう述べられています。(老子講義 )

どんなに神様を求めていても、それが何等かの興味であったら、それはもう純粋に神を求める態度ではなくなるのです。神を求める想いは純粋でなければなりません。自己の本心(仏性)開発の為にこそ神を求めるのです。(中略)

老子はそうした真理を実によく知っていますので、神霊現象のようなことは殆んど説かずに、一直線に神のみ心の深い奥底に人々を導き入れようとしているのであります。

善いことにも悪いことにも、すべての事柄に把われ(とらわれ)させないように、把われの元である想念波動を、どこかへ消し去ってしまおうとして、無為にして為せ、というのであります。

神といえば、神に把われる、仏といえば仏に把われる、そこで、想念行為と直結している道という言葉で、人間の生き方を説いているのです。道といえば、神に姿を求めるような把われ方はしないからなのです。

すべての把われから解放された時、人間ははじめて自由自在の身になり得るわけです。その一番やさしい方法、消えてゆく姿という言葉をつかって、神の道に導き入れているのが、私の説いているところなのです。

ここで五井先生はその本質において釈尊やイエスと同じことを説いた老子が、神仏という言葉や概念を敢えて遠ざけられた理由を語っておられます。

祈りはここで言われるように純粋無雑に神仏を求めるものでないと、自身に内在する霊性、神性を現すことがかなわないということです。

純粋無雑に神仏を求めるというのは、利己的な肉体的願望に関するお願いや自分勝手な依存とは無縁のものです。

生かされていることへの感謝、四六時中守って下さっている守護の神霊への感謝など、不足の思いからの願望でなく、既に満たされていることへの感謝が神仏を求める気持ちの根底にあるときに純粋無雑な「祈り」が生まれます。

そのような純粋無雑に神仏を求める心があれば、その祈り心の赴く(おもむく)先に、必ず霊性、神性が発現されます。

何故ならその時に座禅観法の求める理想の空観と同様の無念無想の境地に至ることができるからです。

冒頭紹介した五井先生の言葉「仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのもの
である」
の意味はこのように考えると理解いただけるのでないかと思います。

ただし現代社会に生きる私たちにとって、阿弥陀仏は勿論のこと、釈迦やイエスにしても純粋無雑にこれを求めるということはなかなか容易ではありません。

そこで五井先生が提唱されたのが「世界平和の祈り」です。

現代を生きる人類のための世界平和の祈り

五井先生は「世界平和の祈りで、なぜ救われるのですか?」という質問に答えられて、このようにおしゃっています。

まず大概の人が、個人の私というものと、世界人類というものとは別のような感じがしている。ふつう何も関係がないような感じがしています。自分一人がどうこうしたって、世界が動くものではないとか、すべては政治の責任とかいって、自分とは関係ないような感じがしている。

ところが、個人個人が集まって国家になり、人類になるわけですよね。

だから個人一人の動きというものは、大変な力を持っているわけです。皆さん方一人一人の世界平和の祈りは、大きな大きなひびきをもって、世界中に広がるわけなのです。

ですから皆さん一人一人が大変な役目を持っている、ということは確かなことなのです。

そのように、世界平和の祈りというものは、世界人類のためにやるのだけれども、それは取りも直さず、自分のためにもなるのです。

自分の中には、病気だとか不安だとか、臆病な想いだとか、妬みの想いだとか、恨みの想いだとか、そういういろんな業想念があります。

それが世界平和の折りを祈ると、世界平和の祈りが持っている大光明の中で消されてゆくわけです。

消えてゆく姿のものはどこへゆくかというと、救世の大光明の中へ消されてゆくのです。業想念が消えてゆくと、何か起こるかというと、人間は本来神の分け生命でしょ。神の生命そのものですね。だから本来の神の生命がそのまま生きてくる。

年中、神の叡智や能力が入って来ているんですよ。

それを人間は業想念でふたをしてしまって、拒絶しているわけなんです。

それで頭の中に溜まっている蓄電池(潜在意識、幽体)の想いでもって、ああじゃない、こうじゃない、とやっているんです。

それを常に直通する、天地を貫く生命の波にすればいいわけです。

そのために、ああじゃない、こうじゃないという想いをなくす。それが「空になれ」というお釈迦様の教えだったり、「無為にしてなせ」という老手の教えだったりするわけです。

だからこの業想念を取っちゃうんです。それが消えてゆく姿です。

過去世からの業想念行為が、運命となって現われて、病気になったり、不幸になったりするわけです。病気になって現われた、嫌な想いになって現われた、不幸になって現われた時に、「ああ、これは消えてゆく姿なんだな。世界人類が平和でありますように、みんなが平でありますように」という想いで祈りますと、その悪いことが祈りの中で消えてゆくのです。

消してくださるのは救世の大光明、神々なのです。そうして消えてゆくに従って「世界人煩が平和でありますように」という愛の気持ち、愛の光明波動がそのまま自分の中に残るわけです。自分の今まであった悪いものは消えて、新しく大光明のプラス面が入って来て(もともとあったんですけれど)、記録されてゆくわけです。

それを繰り返し繰り返しやっていれば、いつの間にか過去世の悪いものはなくなって、世界平和の祈りの愛の気持ち、大光明のひびきが自分の心をいっぱいにしてゆくわけです。

だから、世界平和を祈ることは、自分のために祈ろうと思わなくても、世界人類のために祈っても、自分のためになるわけなのです。自分も救われると同時に、世界人類も救われるんだ、というふうに広い気持ちを持って、気楽に、しかし真剣にやってください。

ここで五井先生がおっしゃっていることが現代に生きるわれわれ凡夫、凡人にも容易に取り組める祈りの方法とその効果なのです。

今回のブログテーマ「霊性心開発の方法⑥ 『無念無想の空観』と『祈り』」で私が述べたかったことはこの五井先生の質問への回答にあります。

人間とは何か 人を構成する4つの体

ここで、過去数回のこのブログで書いてきたことを整理して、今回のテーマについてまとめてみたいと思います。

上の図は下のリンクのブログで説明したことがある五井先生の最初のご著作である「神と人間」にある図です。

神と人間

霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」

この図にあるように人間という存在は大きく分けても神体、霊体、幽体、肉体という4つの体を持っており、人間の幸不幸など種々の運命は幽体(潜在意識)に記録されている過去の想念行為がその原因となっており、この幽体の大掃除が病や不幸など、命の改善に不可欠であるということを上のリンクで説明しました。

五井先生はこのようにおっしゃっています。

いつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。

肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉体身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。

ここでは智慧とおしゃっていますが、病や不幸を根本から解決する力、原動力と言い換えることもできます。また同じことをこのようにもおっしゃっています。

人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。

いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。

肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。

人間には人生における種々の問題を根本から解決する「内在力」が備わっているのですが、肉体頭脳の力だけでこれを解決しようとすると、肉体頭脳の雑念妄念がこの力の入口を塞いで(ふさいで)しまうことになるのだ、ということを五井先生も天風師もまた釈尊やイエスも繰り返し、繰り返し教えて下さっています。

このブログで何度も紹介してきた天風師の以下の言葉もこの事をおっしゃったものです。

人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。

さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。

もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。

それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。

ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。

とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。

ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。

天風師の教えのエッセンス

天風師のおっしゃっていること、教えを先の「神と人間」の中の図で説明するとこのようになるでしょうか。

天風師の教えの柱である観念要素の更改とは顕在意識の消極的想念を積極的なものに意志の力や暗示の力で置き換えていくことを意味します。今の言葉で言えば「ポジティブシンキング」です。

しかし、これだけでは過去(過去世)からため込んできた誤った想念行為の記録(ゴミ=仏教で言えば貪瞋痴の三毒)を簡単に消し去ることは出来ません。

これらのゴミをすっかり焼却してしまう大掃除ができるのが神性、霊性からの光(波動)による浄化で、これを可能にするのが安生座打法=無念無想の空観なのです。

卑近な例でたとえれば、ソニッククリーナーを思い出してください。

メガネ屋さんによく置いてある器具ですが、水や溶剤に超音波を当て、その微細な振動でメガネや宝石などの掃除がしにくいところの汚れをはがしてしまいます。

これと同じように、霊性、神性の微妙かつ強力な光(波動)で幽体(潜在意識)の汚れを浮かせ、消してしまうと考えればよいと思います。

霊性、神性の光(波動)にはその力があります。

その光を人間存在の奥から肉体世界に引き出す方法が無念無想の空観で、天風師はどちらかというと自力でこれを行うことを教えられています。

五井先生の世界平和の祈りは溶鉱炉

これに対して五井先生は他力行です。

先生は「人間にとって真の幸福とは何ですか?」という質問に対して、このように述べられています。

本当の幸福というのは、一言でいえば、人間の本心を顕すということ、自分自身を知るということです。ソクラテスじゃないけれど、「汝自身を知れ」というように、自分自身を知ることが一番幸せなんです。

自分の本体が分かり、本質が分かるということほど、幸せなことはありません。

もう不退転で、驚くことが何にもなくなるわけです。それには何も付け加えることがないんですよ。それはどういうことかというと、まぁ、自分というものは神様から無限に生命の波を頂いている。いわゆるエネルギーがエネルギー源から常に流れてきて、必要な物はすべて与えられるんだということを知ることなんですね。

それが一番幸福なんです。それを外から与えられるという形で思うからいけないけれど、内から-もっと言い換えると、人間というものは、本当はこの五尺何寸という、そういう目に見えている形じゃないんですよね。波勣なんです。光の波動なんだけれども、ふつう肉体にいる人は光と業想念の黒雲の波動が混ざって、少しまだらになっている。(皆さんはもうまだらじゃなくて白光になっているんですよ。)

その光の波動は大生命の根源から流れてくる。宇宙子科学でいえば、宇宙子波動です。宇宙子がたくさん集まって、この生命体になっているわけですね。だから神様のほうに向いて
いさえすれば、神様につながってさえいれば、その人に必要なものは何でも与えられる。

(中略)

 そこでまた繰り返すけれども、お釈迦様は空になれ、空になれ、って坐禅させたんだし、老子様は無為だ、無為だ、無為にして為せ、ってやっているわけです。

だけど空になれ、と言ってもなかなか空になれないし、無為になれ、と言っても無為になれないから、私はみんな現れてくるものは消えてゆく姿ですよ、と言っているわけです。

消えてゆく姿なんだからそれに把われることはない。しかし把われたら把われたでいいから、把われた想いを、もっと大きな高い所に、神様の中に入れてしまいなさい。ただ神様、神様と言っても神様は見えない。どこにいるか分からない。「神様どこです? 私の想いをとってください」じゃ分からない。

そこで「世界界人類が平和でありますように」という神様のみ心ですね、神様のいわゆる理念といいますか、神様のみ心の中の世界人類が平和である、という所へこちらが「世界人類が平和でありますように」って持っていって入れてしまいなさい、というわけですね。

どんなことが出てきても入れてしまいなさい。貧乏が出てこようと、病気が出てこようと、短気が出てこようと、妬みが出てこようと、そういうものは、みんな「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私どもの天命が完うされますように」って、そこへ入れてしまいなさい、と、言っているわけです。

楽なもんですよ。入れてしまうと、邪魔する想いが、その目的の中へ入ってしまうでしょ。

世界平和の祈りというのは、大光明、神様のみ心だから大光明です。だから想いをどんどんどんどん消してくれるわけですよ。

ゴミを持って行って、捨てればいいでしょ。そうすると空になるでしょ。それと同じで、神様は、もうパーッと燃え上がっている溶鉱炉だと思えばいい。鉄でもなんでも溶かしちゃう。そういう溶鉱炉だと思えばいいですよ。

その中に、世界人類が平和でありますように、って入れれば、溶鉱炉がいっぱいに燃え上がっているんだから、その中にどんなゴミでも、どんなものでも投げ込めば、みんなパーッと燃えて光になっちゃう。

そういうふうに思えばいいです。本当にそうなんだから。だから、どんな悩みがあろうと、貧乏があろうと、病気があろうと、自分がいけないと思う心があっても、あいつは嫌な奴だと思う心があっても、そんなものはみんな世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい。

世界平和の祈りの大光明が、溶鉱炉がみんな焼き尽くしてきれいにしてくれる、光一元にしてくれる。

そうすると、それがまたこっちへ流れてきて、こっちは光り輝く人間になるんだから。邪魔な想いをそこに捨てなさい。「消えてゆく姿で世界の祈り」と一生懸命、私が汗流して説いているわけです。

この五井先生の教えを先と同じように図示すれば以下のようになるでしょうか。

この図のように「消えてゆく姿で世界平和の祈り」とは肉体から神体までパイプを通すようなものです。その光のパイプから霊性、神性の光が幽体、肉体に流れ込んでくると考えればよいでしょう。

この霊性、神性の光の波動が幽体の汚れをすっかり消し去り、溶鉱炉の火のように燃やし尽くすのです。

五井先生は同様の事を、老子講義の中でこう述べられています。

肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。

法華経の結経「観普賢菩薩行法経」には有名な一説があります。

一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す

お分かりでしょうが、こういう意味です。

人間の一切の苦悩、不幸は、皆、誤った想念、妄想念によって生ずるのである。

これを正すには、ただ端座して、人間の本質、実体を想えばよい(無念無想の空観、または純粋無雑の祈り)。

そうすれば、過去の誤てる想念、行為によって生じた因縁因果の罪は、霜(しも)や露(つゆ)のように、全て太陽(霊性、神性)の光によって消え去るのである。

長くなりましたので、今日の結論です。

上の普賢経の一節を実践するための最も容易な方法が消えてゆく姿で世界平和の祈りである、ということが今日のこのブログの結論で、皆さんにお伝えしたいことです。

次回はこのブログの読者の方がお仕事にされたり、興味を持たれているが多い「引き寄せの法則」に関して書いてみたいと思います。

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①至高体験と妖怪との遭遇で知ったこと

体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い

体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと

その他 当ブログ記事一覧 

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以下、昨晩の高次元存在からの情報メモ書きです。

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ツインレイとツインフレームの大きな違いについて。

まずはツインフレームとして、同じ鋳型の中にいた同じ魂が分裂してそれぞれの人生を体験し、同じ鋳型の中に戻るというパターンについてお話しましょう。

この地球で別々の性別を得た自分同志が出会ったとしたら、何が起きるか。

体験の共有を欲する。

そして共鳴し合う二人の魂は愛し合う。

ただそれは起きざるを得ない。

なぜなら二人はもともと二人同士でなく、一人でもあったから。

分裂して分かれ、また1つに戻る過程で新しいものを生み出す。

そのために二人は今回の生で再び出会った。

実際には、二人は恋人同士にならなくてもいい。

価値観の共有ができれば。

だけどそれじゃ物足りない。

なぜなら肉体の性別が異なるとき、肉体的にも結ばれたい欲求が強まる。

これがツインレイとツインフレームの大いなる違いでしかない。

なぜなら、たびたび曲解されるが、「ツインレイは体で求め合う」とか、「全身全霊で愛し合う」とか言われるが、実際にはそうではなくただ穏やかな愛がある。

むしろそれしかない。

なぜならば、完全完璧を求めない二人は、ただ同じ愛の鋳型があり、そこに二人の光をすっぽり収めればいいだけだから、それ以上でも以下でもない。

より、自分自身の鋳型に近いものがツインレイと言えなくもない。

本来はもう少し違う表現方法もあるけれど、実際にはそう。

そして、方やツインフレームとはというと、ツインレイほどぴったりしっくりこない。

なぜなら、魂が分かれている間に他の過去世も含めて独自で発達している部分もあり、より完全完璧な自分自身そのものではないから。

むしろ、はみ出した自分。

おさまり切れない自分。

すると、ものすごくよく似ているが、まったく似ていない部分もなきにしもあらずで、そこが互いを刺激する。

すなわち、他の過去世や、自分がしてきていない体験を相手がしてきているから、分離状態のときに何があったかを互いは知りたがる。

どちらも自分の魂だけど、発達状態が少しだけ異なる双子の魂は、そうやって欠けた部分の補完や調整をしたがるというわけ。

すると、何が起きるかというと、表面上的には、燃えるような恋が起きる。

なぜなら、知りたいから、その秘密を。

ほぼ自分そのものなのに、自分自身でない部分を。

すると、魂は履き違えないけど、肉体は間違える。

すなわち、「運命の相手だ!」と。

だって、これほど合う人はいないし、出会った間からほぼほぼ、問答無用で恋に落とされる。

もともと1つだった魂は分裂を経て一人で旅を続け、その果てに自分の元の一部分と出会わされる。

懐かしくないわけがない。

特に、孤独に喘ぎがちな宇宙人タイプの魂はよりそうで、「ああ、これでやっと理解者ができた」と涙にむせぶ。

だがしかし。

みなさん、ちょっと待ってください。

我々が言いたいのは、『あなたはあなたに恋しますか?』ということ。

なぜなら、人は異なる性に惹かれる。

すなわち、男性は女性に、女性は男性に。

それだけが全てではないけれど、やはり独自性や自分にないものに惹かれやすいということは、やがて飽きが来ざるを得ないということ。

つまり、一定の分離期間を経て、そののち至高体験といえなくもない分離からの結合。

しかし、結合してみればなんてことない自分そのものだったと知ると、あっという間に飽きても来る。

すると何が起きるか。

ストーカーまがいの、片側がひたすら逃げ、片側はひたすら追いかけるという図式。

これがいわゆる世間的に言われる『チェイサーとランナー』の話にならざるを得ない。

なお、ツインレイとツインフレームの違いをもっとはっきり言うと、ツインレイは魂が分かれたばかりの二人、ツインフレームは分かれて久しい二人、と言えなくもありません。

シンプルにいえば、ツインレイのほうがより似ている魂、そしてツインフレームのほうが異なる体験を多く吸収している魂たちということにならざるを得ない。

巷に流布されている噂との違いはここにありますが、判別方法としては、ツインフレームのほうがより激しく相手を求め合い、問答無用に恋に落とし合って、傷つく体験も含めた、ラン
ーやチェイサーとも言われるような、いわゆるストーカーまがいの体験も含む有象無象の混濁した体験にならざるを得ない。

方やツインレイのほうは、とても穏やか。

老年期の長く連れ添うおしどり夫婦のような感情、感覚が二人に初めから芽生え、それは年の差カップルを超えてはるかに飛翔し合う美しい魂の共鳴がそこにある。

すると、魂的な至高体験、あるいは価値観の共有度はこちらのほうが高いと言えなくもありません。

どちらがいい悪いではない。

ただ、ツインフレームのほうが激しい体験とならざるを得ず、それは傷つく、嫉妬や憎悪といった体験も含む情熱的な関係。

ツインレイはこれ以上シンパシーを感じ合える相手もいないだろうという、魂的に共鳴率が高い穏やかな関係性となります。

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「さてしかし、このツインフレームとツインレイの話は、やはり情報の下地がある人とない人では、理解に及ぶ範疇が違いすぎるでしょう。

ですから、ここからはもっとベーシックな、知識としての話をさせていただきます。

我々がツインレイやツインフレームと言っている、『魂が分化した状態とはなんぞや』という話。

とてもシンプルにいえば、人の肉体の中におさまっている魂は、いくつかに分裂することができます。

なぜなら魂は、とても簡単にいえば意識体。

すなわち、エアのようなものであったり、光のようなものであったりします。

太陽の光、あるいは電気の光がいくつにも分かれやすい状態のものだと考えたら、理解がしやすいでしょうか。

そしてこの光たちは、それぞれを分化させると、それぞれの役割を持って、あるいは意図や学びをもって、それぞれ別の肉体の中におさまることができる。

生きるプランが違うということは、性別も選べるし、どの国にいつごろ生まれるかということも選べなくもない。

言葉を濁すのは単純に、「どの国に」は皆がいったん選べるとしても、「どの時期に」が選べる人はそう多いわけではない。

宇宙人として役目をもってこの地球に来ている人は選べるが、そうではない人はおおむね選べないと、いったんこれもやはりシンプルに言っておきましょう。

つまり、あなた方が魂としての光を分化させ、選びながら(あるいは選ばされながら)別々の肉体の中におさまるとき、魂的な契約はどうなるか。

とてもシンプルに言ってしまえば、基本的には何もない。

ただ、出会うこともなく、それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの体験をする。

そして、魂的にその情報を持ち帰る。

魂・・・いわゆるエネルギー体としての自分のDNA的な部分に情報を記録して、また肉体を脱ぎ去ってエネルギー体としての統合を果たしたとき、その情報はスキャニングされ、エネルギーの貯蔵庫におさめられる。

以上である。

だが、ほんの時たま、スタックしがちな魂は、この世で出会わされるプランへと変更され、そして出会うことでお互いに覚醒させ、自分のプランをしっかり生き切るための要員として働かされることがある。

すなわち、もともとは出会う予定ではなかったが、予定変更が(サポートするガイドスタッフたちにより)検討され、そして運命的に曲がり角を曲がったところで出会わされる。

それはもう本当に、突然に。

すると、その人たちが肉体的に別の相手をすでに持っていたとしても(つまり結婚していたり、絆の固いパートナーがいたとしても)、高次元存在たちの手引きにより出会わされた二人は、たちまち恋に落ちるしかない。

なぜなら、そうでしか共有していけない空間、あるいは体験があるなら、恋に落としてしまうしかないから。

しかし、何も意図的に高次元存在たちが情報操作をして操り、恋に落とすばかりでもないのは、上記に書いたような仕組みによって、二人は勝手に恋に落ちざるを得ない。

すると、二人の間には急流にまかれたような、急激な心理的変化と、劇的な出会いのタイミングと、そして価値観の共有という至高体験が起きざるを得ない。

しかし、プランは悲しいかな「軌道修正」のために出会わされた二人と言えなくもない。

もちろん、お互いの使命や役割が大きい場合、二人で手に手を携えてもっと大きな役目をやっていきましょう・・・ということになって、二人でタッグを組みながらその後も上がっていく関係性になる場合もある。

至高体験のその次に来るのは覚醒体験、そして価値観の共有をひたすらし続ける、真の結合、統合である。

今後、このようなカップルは急激に増えざるを得ない。

なぜなら、今、地球はすごい勢いでアセンションが進み、アセンションが進むということは魂の統合も進む。

もっと平たく言えば、「同じ周波数の人同士は引き合う」という理論にのっとって、同じ周波数を放ちあう分化した魂は、すごい勢いで、プランの変更や覚醒をさせる意図も関係なく、同じ場所に再集合をしたがるから。

簡単に言えば、ただそう。

同じ
波数の魂は同じ場所に戻り、そして違う周波数を放つ者同士はただ分かれていくという、それだけの話と言えなくもない。

今後、この価値観の共有体験はあらゆる人が体験することにもなろう。

なぜなら、あなた方はいつでも体験をしたがるから。

魂は体験をするためだけに地球遊泳を繰り返し、そして、生まれ、死に、また生まれる。

ということは、これまであまり叶わなかった「もう一人の自分との出会い」、そしてその存在との統合、そこからの至高体験とは、あなた方が皆体験したくてたまらなくなるような、シンプルに言えば最高のトピックス、あるいは体験のみならず、体感、最高の快感、それらを伴う最上の肉体体験と言えなくもないから。

なぜこの時期に、あべさんを通じて我々がこのメッセージを発信したいか。

あなた方の思考グセを取り去りたい。

あなた方は常識に縛られすぎているし、頭で考えすぎているし、すると、肉体的な感覚や感情は置き去りに常にされる。

すると、我々はただ体験をするためだけに来たと言えなくもない宇宙意識体だというのに、肝心の体験をおざなりにして、感覚や感情のほとばしる至高体験を目前にして、ただ「人間として肉体を持った常識に縛られて生きる」ということだけに終始してしまう。

これがどれほどもったいないか。

あるいは、どれほどの履き違えを起こすか。

何のために生命を持たされて、肉体を持たされて、肉体を持ってしかできない体験をするためにあなた方は地球を生きているのか。

それについて考えていただきたいとき、我々は常識外れと言えなくもない声明を出したり、導いたり、アドバイスをしたりします。

それがあなた方における「魂としてのサポート」でしかないから。

このブログ記事の終わりに我々から発せられるメッセージはこれだけ。

『ただ今の愛を信じよ。

目の前に繰り広げられる酒池肉林と言えなくもない、ただ魂が欲する相手との、今この瞬間だけのラブアフェア。

しかし、その先には必ず新しいあなたと巡り合わされる、深淵なる宇宙の導き、采配があらざるを得ないから。

だから、とどまるな。

躊躇するな。

我慢が得意な国民性を持つ日本の人々に、我々サラゴサの神から告げられることはただ一つこれのみ。

我慢はするな。

楽しめ。

地球生命系における肉体の至高体験を』。

我々からは以上です」

う、うーん・・・・・・・・・なんという奥深い話あせる

個人的には、「じゃあ、同性の自分と出会うとどうなのか?」また「その出会いも増えるのか?」などなど、ほかに聞きたいこともたくさんあるけど、いったん今日は長くなったのでここまでとします。

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