暴走する至高体験
前回のブログの最後に、「次回は私の信じる「さとりをひらく」ためのもっとも「やさしい方法」について書いてみたいと思います。」と書きました。今日はその続きです。
それが五井昌久先生の「世界平和の祈り」で、先生の世界平和の祈り、消えていく姿の教えについては既に以前のブログで書きました。
中村天風師がインドでの瞑想経験から「霊性心(さとり)は容易に出てくる、雑念や妄念を払いさえすれば自然に出てくるんだ」とおっしゃったように、またエックハルトトールが「迷走、暴走する思考をストップする」ことで覚醒を経験したように、「思考を止める」ということが「さとり」「霊性心開発」の入口であるのは疑いがありません。仏教のいう「空」の境地や「空観」も頭の中を去来する様々な思考を止めることで自身の本性である仏性を覚醒させるという事でしょう。
五井先生の想念停止の修業
この「思考を止める」という修行を通じて、ご自身の神性と一体になられたのが五井昌久先生です。昨年は五井先生のご生誕100周年でした。それを記念して出版されたのが身近で先生に仕えられた高橋英雄さんが書かれた「五井せんせい わが師と歩み来たりし道」です。
この本の中で五井先生の想念停止の修業を紹介され、「五井先生が言語に絶する霊修行にて自我の想念を滅却したのち直霊と一体となったのは昭和二十四年、六月の終わりごろと聞いている。」と書いていらっしゃいます。
直霊とは大元の霊、いわば大霊で、先生が神我一体となられたこの体験がどのようなものだったかはご自身の自叙伝「天と地をつなぐもの」に詳しく紹介されています。
高橋さんも本の中でこの自叙伝の一節を紹介されています。
「私の想念停止(空観)はついに成功したのであった。私はものを想わなくなった。しかし必要があれば語り、用に応じては手足を動かし、体を働かせることもできた。私という肉体的個人はもはやこの世に存在しなくなっていた。私の過去世からの想念のすべてを天に還してしまったのである。天と地の間にただすっきり澄み徹った私がいた。久しく停止していた私の個我がすでに天の本体と合体していることを直感した。」
五井先生が創設された白光真宏会のホームページに自叙伝の一部も公開されています。
興味のある方は、以下のリンクをご覧ください。
高橋さんの本では五井先生と釈迦、イエスキリスト、老子との合体、合気道の開祖の植芝盛平先生との交流などのエピソードとともに日常の五井先生の人間的な一面も数多く紹介されています。この本は五井先生の事をご存じない方が五井先生に触れる絶好の書ですから是非お読みになることをお勧めします。
さて、今回のブログで改めて五井先生について書くのは、冒頭の天風師のインドでの修行による「さとり」やエックハルトトールの覚醒体験を凡夫、凡人が容易に実践できる方法を紹介したいからです。
先の五井先生の自叙伝「天と地をつなぐもの」や最初のご著作の「神と人間」は五井先生のご著作の中の重要なものですが、先生のご生誕七十周年記念として新装丁で出版された「老子講義」も大変重要なご著作です。
そこで、これまで書いてきた「霊性心開発(さとり)の方法」の締めくくりとして、五井先生の老子講義から、「さとり」の為のヒントをご紹介したいと思います。
無為にして為す
老子の教えのエッセンスは「無為にして為す」です。無為とは判りやすく言えば「自然体」ということであり、難しく言えば「空の境地」という事です。
即ち、「無為にして為す」とは「あれこれ考えず、妄念、雑念を払った状態で居る(行う)」という事でしょう。これについて五井先生は老子講義、第三十四講で「無為」についてこのように講じていらっしゃいます。
「無為とは一言にして申しますと、為にしない、ということなのです。 何をしよう、かにをしょう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。そう致しますと、無為を為すとは一体どんなことをするのかという疑間が当然起こってまいります。頭脳で考えないで一 体何ができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。」
五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念について第二十七講でこうおっしゃっています。
「人間というものは不思議なもので、思わなくともよいようなことが次から次へと頭脳を駆け巡り、一体こんな想念は、頭脳の中にどんな風に潜んでいたのかなあ、などと思ったりするものです。頭脳を駆け巡る想念というものほど、あてにならぬものはありません。人間を立派にするというより、人間を混乱させる要素のほうがよけいふくまれているのが、頭脳を駆け巡る想念波動です。それは、心配、不信感、嫌悪、不安定、等々、頭脳を駈け巡る想念は、得てして、神のみ心を離れたものが多いのです。」
ここで五井先生は端的に「神」とおっしゃっていますが、これを老子風に言えば「道」=宇宙の根本原理、天風師風に言えば「宇宙霊」、エックハルトトール流では「大いなる存在」と言い換えることが出来るのは言うまでもありません。
また第ニ講でもこう述べられています。
「人間の運命を複雑にしたり、乱したりするものは、人間各自の思いに他なりません。不幸も悲哀も悲しみも怒りも妬みも、それはすべて人間の思いの波動がそれを引き起こすのであって、人間自体に不幸や悲哀があるのではないのです。熟睡している時に、その人に何の不幸観や悲哀感がありましょう。睡っている時は、その人の肉体はそこに存在しながらも、その人の想念は、その人の肉体を離れているので、その人に何らの感情も起こらないからなのであります。とすると想念さえ、悲哀や不幸の波の中にいなければ、人間には悲哀も不幸もないということになるのです。そこで、仏教では、そうした想念をすべて無くしてしまう空の境地になる練習を主として行わせたのであります。」
老子の言葉を解説されながら、五井先生は肉体頭脳を駆け巡る想念が人間本来の奥深く存在する叡智へのアクセスを妨げているとして前述の「無為」の説明に続けてこう述べられています。
「頭脳で考えないで一体何ができるのであろう、普通の
はこう考えるのが当り前であります。 ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人とは外れている人との相違なのであります。凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を唯一無二の人間と想っています。しかし聖人は、人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、生命の現われる一つの場所であることを知っております。それは頭で知っているのではなく、事実として承知しているのです。そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、無限の段階において働きつづけているのであることも知っているのであります。ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを経巡っているような想念や知識をいくら振り迥していても、大宇宙の法則に乗り切ることはできない、大宇宙の法則に乗って生きてゆかなければ、この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけないと自らの体験で昔からの聖者たちは知っていたのです。」
ここで五井先生は「肉体は道具であり、場所であり、生命の流れは奥深いところから無限の段階で働き続けている」とおっしゃっています。
肉体だけが人間ではない
このことを第二十三講ではこのように語られています。
「人間というものは、実に不可思議なる存在でありまして、ここに肉体として存在しており、種々と想い巡らしているこの人間だけが全存在ではありません。全存在どころか、ほんの先端の現れでしかありません。凡夫というものは、この肉体人間だけを人間の全存在だと思いこんでいるのですから、眼先の事柄だけしか判りようがありません。
ところが真実の人間というものは、 この肉体より数等倍も秀れた機能をもつ体が幾層にも奥に奥に存在しておりまして、奥にゆくにつれて、徴妙この上ないものになってくるのであります。そしてその一番奥の存在が宇宙神のみ心の中心にある直霊(なおび)ということになるので、この直霊が神そのものということになるのであります。
ですから人間心の一番奥深いところは神そのものとなるのです。そしてそうした神そのものの働き場所を神界というのであり、次第に霊界、幽界、肉体界と、その働きのひびき(波動)が遅鈍になってくるのであります。」
第二十一講でも肉体頭脳の思慮分別が人間のレベルを低くしてしまっていると、このように述べられています。
「肉体人間というものは、只単なる先端の現れであって、人そのものではないということなのです。人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。
ですから、肉体身として現われている、一番粗い、波動の現れ、一番速度の遅い渡動の現れだけを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、スピードの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができる筈がありません。小さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。それは丁度、世界というものの全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧みないでいるとしたら、その人の智能程度は非常に低いものであることはあたりまえのことです。」
人間には肉体だけでなく、大きく分けても幽体(界)、霊体(界)、更に神体(界)があるという認識は信じられない人もいるでしょうが、現在の物理学では十一次元の多重次元の存在が認められています。むしろ五井先生がおっしゃっているような世界観、人間観の一部を科学が探求し始めていると考えても良いのではないでしょうか。
この人間存在の真実を「さとり」「直感」で知りえた聖人、賢者にとっては肉体身だけが人間だと思っている人は未開人に見えると、五井先生は上の講義にこう続けていらっしゃいます。
「人というものの全体を知っている真人や聖賢の眼からみますと、人というものが肉体身だけの者だと思っているような人々の在り方をみていると、丁度そうした未開人の生活をみているようなものにうつるのです。真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。」
よって、第三十四講で、過去の聖人、賢者が肉体身だけが人間であるとするものに、本来の人間の姿を知らしめようとして、「そこで、老子は無為と説き、釈尊は空と説き、イエスは神のみ心のごとく、といって全託を説いていたのであります。 無為を為し、空になり、全託の境地になりますと、肉体頭脳と奥深い大宇宙の根源の心、つまり宇宙神のみ心とが一つにすっきりとながりまして、宇宙神の智慧や能力が、そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。」と、大宇宙の根源の心、無限の叡智から、その力を智慧を引き出すための方法である無為、空、全託をお示しになったのだ、と五井先生はおっしゃっています。
このことを第二十一講では更にこのように述べられています。
「古来の聖賢はみな、肉体智を捨てよ、空の心になれ、といい、老子は無為の道を根本の教として説いているのであります。ところが人間は、頭脳で考えないでどうして行動ができようか、ということにひっかかってしまうのです。それは無理もありません。 肉体身の頭脳の他に考えの、湧いてくるところなどありはしないと思い込んでいるからなのです。
しかし 私がいつも申しておりますように人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れているといつてもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より徴妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより徴妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉
身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
世界平和の祈りの意味
そして微妙な世界から最も素晴らしい知恵を引き出すための一番の方法をこう教えて下さっています。
「この智慧を一 番奥深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想念を一度全部投入してしまうことがよいのであります。そしてその智慧も世界人類の完全平和に役立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものずばりの唱え言が適当なのであります。言は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中からでてきた智慧であり行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのであります。老子の道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。」
老子の「無為」とぴったり一つになり、仏教でいえば「空の境地」にいたる方法が世界平和の祈りである、ということですが、同じ第二十一講の前文では、こう述べられています。
「人間の行為というものは、この肉体頭脳智で考えているうちは、どこかに抜けた、宇宙神、大生命のみ心から外れた行為となってしまうことが多いのです。ですから、各自の集団が、自分達の思想行為こそ、社会を善くし、世界を安定させる、と各自が想って、その活動をしているのですが、その各自の行動が、お互いにぶっかり合ってしまって、宇宙神のみ心の根本的な在り方である大調和を乱す争い事になってしまうのであります。そこで老子は声を大にして、無為にして為せ、無為にして治めよ、というのであります。 肉体の頭脳智に頼っている以上は、無為にはなり得ません。無為になるためには一度肉体頭脳智を何処かに無くさなければなりません。私はその方法を世界平和の祈りをもってしなさい、というのです。」
第二十三講でも、肉体頭脳を駆け巡る想念を「世界平和の祈り」に投げ入れることが凡人を容易に聖人にする道である、としてこう述べられています。
「人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくらぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。いいかえますと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永違の生命、宇宙の大きな流れに沿ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべるすべもありません。それが凡夫と聖人の違いなのです。」(中略)
「肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。」
このように、五井先生の世界平和の祈りは普通の人(凡夫、凡人)が特別な修行なし、日常生活のまま、老子の「無為」、釈迦の「空」、イエスの「全託」に至る容易な方法なのである、と繰り返してお示しになっています。
また第八講でもう少し判りやすくこうもおっしゃっています。
一度に到底そのよう(※霊性心に基づいた生き方)になれる筈のものではないのですから、ひとまず、生命そのままのひびきを、本心(※霊性心)と致しまして、本心そのままの生き方をするのには、どうしても、頭脳を去来する想念が邪魔になります。そこで、頭脳を去来する想念のすべてを消えてゆく姿として、宇宙神のみ心の中にその瞬間瞬間に祈り言を通して入れてしまう練習をすることにするのです。
明目の仕事のこと、これからの計画のこと等々、すべて一度は宇宙神のみ心の中に入れきることにして、入れきった後で、今度は行為として現われた場合には、その行為をすればよい、ということにするのです。それを私は、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という祈り言に結びつけて説いているのであります。何や可と想いわずらう想念はすべて消えてゆく姿と思うと、心が静かになって、生命のひびきがすこやかになるのです。そうして遂には老子の説く無為の生き方のできる人間になってくるのであります。(※私の注記補足)
以前のブログ「霊性心開発の方法」でも全託や消えていく姿について少し違う角度から論じていますので、まだお読みでなければ、こちらも一読ください。
世界平和の祈りはエレベーター
先に紹介した第ニ十七講に続けて五井先生はこのようにおっしゃっています。
「これ(※世界平和の祈り)は無為にして為す、という老子の根本思想の世界に、祈り言をもって、昇りきってしまう方法なのであります。現代の人たちには、玄徳の心といっても、無為といっても、空といっても、その心の状態の素晴しさはわかっても、自分自身では、とてもとても達し得ない境地だと、はじめからその境地に昇ろうとする意志がないのです。ですから、あまりそうしたかけ離れた境地になることを、はじめからすすめたとて、とても無理なことなので、私はそうした素晴しい境地を、一応、老子や釈尊やイエスの言葉で示しておいて、そういう境地になれば素晴しいのだ、あなたも人類も共に本心のままの生き方のできるのは、一人でも多くの人が一日も早く、そうした境地になることなのだ、だがしかし、そういう境地には一朝一夕でとてもとてもなれるものではない。だから私が世界平和の祈りという、エレベーターをここに用意しておいたから、ひとまずこのエレベーターにお乗りなさい。あなたの知らぬ間に、高い境地に昇ってしまいますよ。という風に世界平和の祈りをすすめているわけなのです。」
ここでお示しに
っているように「世界平和の祈り」はちょうどエレベーターのようなものです。老子の無為、仏教の空は凡夫、凡人にとって、長い階段を一歩一歩上っていくような大変な修行です。
これに対して、世界平和の祈りは、難しい修行なしに高い境地に上っていく「エレベーターのような易行道」です。
これは私の実感でもあります。確かに世界平和の祈りによって自身の霊性の奥深くへのアクセス、霊性開発が可能になりました。
だから、多くの人にこの世界平和の祈りを行って頂きたいのです。それはこの平和の祈りが現世の様々な悩み、苦しみの根源からの解決法であり、最も根源からの創造性開発法と信ずるからです。
世界平和の祈り
(2018年6月追記 このブログで私は「霊性心開発」をテーマに一連の記事を書きつないできました。
これまでも繰り返し述べたように、霊性心開発とは「宇宙本体と繋がり、そこから本来人間が持っている内なる叡智、エネルギーを実生活に引き出す」ことを意味します。そしてその方法が無為であり、無念無想、空観です。
この無為、無念無想、空観について書いた最初の記事は下の中村天風師のインドでの悟りで、その中で天風師と師匠のカリアッパ先生とのやり取りを紹介しています。
天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り
カリアッパ先生は無念無想を体験した天風師にこう言われました。
「たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」
この言葉の意味は
「無念無想になれば、そこに人間が本来持っている内なるエネルギーが泉のごとく湧き出すんだ。日頃は雑念、妄念の類がその出口を塞いでいるから出ないんだ。」
ということです。
中村天風師はこの体験を紹介されて、このように述べられています。
「人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。
さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。
とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。
ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。」
ここで天風師が述べられたのが、老子の言う「無為」の生き方ですが、私は「世界平和の祈り」で、天風師がおっしゃっているトランス状態に容易に入り、その先の霊性境地に自然に至ることが出来るということを体感しました。
天風師のおっしゃる人間と神、造物主を結びつけるスイッチは私にとって世界平和の祈りだったのです。
このことを念頭におき、上の記事や下の関連記事をお読み頂ければ幸いです。追記 終わり)
五井先生のご講話
さて、五井先生のご講話が沢山YouTubeに上げられています。その中から今回のブログに関係が深いご講話を2つ紹介させて頂きます。興味を持たれた方は、これらを一度お聴きください。
以下はご自身の教えの概略について語っていらっしゃる10分程度の講話です。
また以下は今回のブログのテーマである無為、空についての38分のご講話です。
今回の記事が読んでくださ
皆さんのお役に立てば幸いです。
関連記事
霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
参考記事
世界平和の祈りの行じ方
天風師が説く「5つの心」① 霊性心とは何か
天風師が説く「5つの心」② 霊性心とは何か
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」② 甲田光雄先生と舩井幸雄先生、そして世界平和の祈り
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法
体験談①至高体験と妖怪との遭遇で知ったこと
体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い
体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと
その他 当ブログ記事一覧
至高体験を買いたい人集まれー。
今回のブログは、「病や不幸とどう向き合えばよいのか」という以前のブログを読んで下さる方が少なからずいらっしゃるので、同じテーマの続編として、舩井幸雄先生が創刊された月刊紙に3年ほど前に寄稿した文章を再構成し転載するものです。
入社した会社の創業者に教えてもらった「西式甲田療法」
私が西式甲田療法に出会ったのは新卒で入社した会社でのことでした。当時まだ中小企業程度の規模でしたが、今では「オートバックス」として良く知られた会社になっています。その創業者である住野敏郎さんが熱心な西式健康法の信奉者だったのです。住野さんの経営法には際立った独創性がありました。この独創性が大阪の小さな会社を後に世界一の規模まで押し上げた原動力でしたが、私は住野さんの身近にあって、その歴史を文字通り体験しました。
その独創性を象徴するのが、住野さん自らが定めた「経営の三本柱」です。柱は一本でも、二本でも安定しません。三本あって初めて安定するという意味を込めて、①SMI、②西式健康法、③フランチャイズシステムの三つの柱が住野さんによって定められました。
それぞれ簡単に説明します。先ず「SMI」ですが、これはアメリカのポールJ.マイヤーさんが始めた成功実現法です。日本的に言うならば「念ずれば花開く」、夢や願望をビジョン化、信念化することで、実現せしめるメソッド(方法)を体系化したものです。
当時の会社の社是は「願望実現」で、住野さんは「願望実現」の言葉とともに、当時世界一の小売業であった企業の本社ビルの写真(当時世界一高いビルでもありました)を常に目に触れるところに置き、瞬時も「世界一になる」というビジョンから心を離さないように心掛け、それを信念化しました。そして社員にもビジョンによる目標設定の大切さを常に力説されていました。後に世界一になったこの会社の大成功はこの住野さんのビジョン(視覚化)によって強化された信念の力によってもたらされたものだ、というのが私の実感です。
「想いが実現する」「信念が現実化する」というのは一種の宇宙法則で、このブログでも中村天風師の教えなどを通じてこのことに触れてきました。以下はそのことについて書いたブログです。
「引き寄せの法則」とは何か ①―「願望実現の経営」住野敏郎さんから学んだこと
舩井先生、甲田先生、西式健康法との出会い
そして「西式健康法」です。住野さんは若いころから胃腸に疾患があり、悩んでいらしたようです。またご子息が病弱であったことも悩みの種でした。そんな折、ある取引先から西式健康法の創始者、西勝造先生を紹介されたことから、西式健康法の考え方に深く影響を受けるようになりました。
当時、西先生のお弟子さんの中でも特に注目されていたのが甲田光雄先生で、甲田先生が大阪八尾で開業されていることもあり、住野さんは甲田先生を深く信頼、師事するようになりました。冒頭「西式甲田療法」と書いたのは西勝三先生が開発した西式健康法に独自の工夫を加えられて完成されたのが甲田先生であったからです。
西先生(左)と住野さん(昭和三十年代と思われます)
前述のように住野さんの経営は独創的なものでしたが、入社したての私の眼にはかなり奇異に映りました。熱心に勧められる(というよりやや強制気味の)SMIもそうでしたが、西式健康法もおよそ現代医学の常識とは反対の考え方が多く、それを熱心に社員だけでなく、お客様にまで勧める創業者に口にこそ出さないまでも「ついていけないな」、「変な会社だな」と感じている社員や関係者が少なからずいたように思います。
三本目の柱「フランチャイズシステム」は単なる契約による「看板貸し」のフランチャイズシステムではありませんでした。一言でいえば、その核心は「運命共同体」「思想共同体」であってモノの見方や考え方を同じくする同志的結合を意味していました。
よって創業者にとっては西式健康法は単なる「健康法」ではありませんでした。西先生や甲田先生と身近に接し、驚くような治療実績を目の当たりにしてきた住野さんには、「SMI、ビジョンによる願望実現」と共に、西式健康法の独創性も自身の「モノの見方、考え方」の中核を成すものになっていました。西先生や甲田先生は、SMIのポールJ.マイヤー同様にモノの見方、考え方を教えてくれた恩人でもあったのです。
そうであるが故に、会議やお客様も集めた大会などに甲田先生や甲田先生のお弟子をお招きし、講演をお願いすることが度々ありました。
しかし、現代医学の常識とは相いれない西式甲田療法への理解がなかなか広がらないことから、住野さんは創業の地の会社施設を改装、「健康センター」を開設し、そこで西式甲田療法を学び、体験する為の「健康センター」を開設、一週間の体験、学習コースを始めます。私が西式甲田療法への認識を深めたのも、このコースに参加したことがきっかけでした。
会社の全国大会で講演する甲田先生
私は当時まだ一若手社員であったのですが、既に甲田先生の知遇を得るようになっていました。まだ若かった私が甲田先生と親しくさせていただくきっかけになったのが舩井先生でした。
当時毎月開催されていた舩井先生主催の月例経営勉強会に参加していた私は、毎回「目からうろこが落ちるような」体験をしていました。舩井先生の講話に深く感銘を受けた私は少しでも内容を社内に周知しようと毎回一生懸命受講レポートを作成していました。若い私が経営者向けの勉強会の定例出席者に選ばれたのは、そのレポートが評価されたこともあったのではないかと思います。
レポートは会社の顧問でいらした甲田先生にもお送りしましたが、早速甲田先生から直接「大変参考になった」というお手紙を頂戴しました。以来甲田先生と舩井レポートを介して親しくやり取りをさせていただくことが少なからずあり、甲田先生から可愛がっていただくようになりました。
さて、西式健康法の体験学習コースは「症状即療法」(しょうじょうそくりょうほう)「心身不二」(しんしんふに)「朝食抜き」「断食療法」など西式甲田療法の基本原理を学ぶとともに西式甲田療法の考え方に基づいた食事や体操、また入浴法などを実践するというもので、甲田先生のご指導を得て設計されたものでした。そしてコースの目玉は二日目の甲田医院での甲田先生の
「診察」にありました。
当時すでにその名声が世界的であった甲田先生の診察を受けるのは何ヵ月かの「予約待ち」が発生している状態でしたが、月二回火曜の午前中はコース参加者は直接甲田先生の診察を受けることが出来ました。私が甲田先生の診察を初めて受けたのもコース参加時のことでした。
甲田先生の診察は「問診とも言えない」問診のみで検査は一切なさいません。「問診とも言えない」というのは、甲田先生は目の前の患者の顔を見、手のひらを見て、それだけで診断を下されることが殆どであったからです。
特に病気があるわけでない参加者には何かを聞かれることは、まずありませんでした。
しかし、それだけでその人の日頃の生活態度や食事の嗜好、また症状に表れていない疾病などを指摘され、コース参加者を驚かせるということが少なからずありました。このコースに参加して私はモノの見方や考え方が変わりました。その意味では創業者の「狙い通りになった」社員の一人であったと言えます。
もともと理屈っぽい私にとって西式甲田療法の考え方は学べば学ぶほど合理性が高いように思えました。以来、住野さんの思惑通りに私は西式甲田療法の信奉者になりました。
驚異の甲田療法、甲田先生の治療
しかし、その時の私の西式甲田療法への理解はまだ「頭だけ」のモノでした。それを体で納得するようになるのはその後のことです。
そのきっかけは思いもしなかった体の不調でした。既に四十代になっていた私は会社の幹部社員になり、それなりの重責を担うようにもなっていました。
甲田先生は手相もご覧になりそれがよく当たるのですが、観ていただいたときに「責任感が強くて、正しいと思ったことは貫き通す性分やな、良いことやが頑固や」という事をおっしゃって頂いたことがあります。そういう性分が過重なストレスを招いたのでしょうか、春先に引いた風邪をきっかけに、数ヵ月咳が収まらず、当初は倦怠感、咳は収まったものの倦怠感は強い疲労感となり、終には仕事もままならない状態になりました。
この間病院も受診しましたが、確たる原因が解らず、医者の診立ては「心因性」、すなわちストレスによるものということで安定剤等の処方を受けるのみ、薬も少しは試しましたが、一向に症状が良くなるようには思えませんでした。困り果てた私が選んだのは健康センターへの入所でした。
既に甲田先生の知遇を得ていた私は直接甲田医院に診察をお願いすることもできましたが、「西式甲田療法の一部とはいえ実践者の私がこんな病気になって、甲田先生に会わせる顔がない」という気持ちが強くあり、直接診察をお願いすることに躊躇があったからです。
フラつく体で健康センターに入所した私は甲田先生の診察を受診しました。私の顔をご覧になって、先生はすぐに異常に気が付かれたのだと思います。診察室に入るなり「どうした?」とお尋ねになりました。私はこの数ヵ月ひどい疲労感に悩まされていること、病院で診断がつかないことをお話ししました。話を聞きながら私の手のひらをご覧になっていた甲田先生が「背中を見せなさい」とおっしゃいました。
背中を向けた私の背を先生は二本の指でなぞられましたが、あるところでぴたりと指を止められて、「腎臓がいかれている」とおっしゃり、机に向かい、サラサラと養生法(甲田先生の処方箋です)を書いてくださりました。
さらに一言「心配いらん。一か月で日本晴れになる」というお言葉を頂きました。
この先生のお言葉と処方を頂戴して、長く体の異常に苦しんでいた私は、本当に救われた思いがしました。後で聞きましたが、私の病気は「鈍重腎臓」と呼ばれるもので、検査しても血液や尿に異常が出ないものだったのです。世にいう処の「慢性疲労症候群」は鈍重肝臓や鈍重腎臓がその原因であるということも後に知りました。
養生法には西式甲田療法の食事法と体操(六大法則)、入浴法の回数などが書かれてあります。
そこには、食事は一日二回(昼食、夕食)玄米(軽く一膳の分量)と豆腐(半丁、150~200g)のみ、あとは青汁を午前、午後に飲むようにとあります。また水の摂取は1日3リットルの大量ので処方でした。西式健康法の「毛管運動」「金魚運動」を一日数分、数回、冷浴と温浴を繰り返す温冷浴を一日一回とありました。
水の大量摂取(午前中にできるだけ)と毛管運動(一日6回)は特に鈍重腎臓に効果があります。早速、ふらつきながらも処方通りの食事や体操を熱心に実行しました。コース修了、帰宅後も食事や体操を続けました。
養生法の実践を初めて二週間目ぐらいからでしょうか、メキメキ回復していることが実感できるようになりました。さらに日に日に体調はよくなり、先生の「一月で日本晴れ」というお言葉通り、四週目にはこれまで経験がないまさに五月晴れのような健康状態になっていました。
私が西式甲田療法、特に甲田先生がお勧めになっている「青汁」と「玄米と豆腐」だけの食事の効力を本当に知ることになったのは、この時の体験によるものです。以下がその折に、甲田先生から頂戴した養生法です。甲田先生は何パターンかの養生法をあらかじめコピーされてそれに量や回数、注意点を書き込まれていらっしゃいました。
病気の原因を見抜く甲田先生の眼力
甲田先生の不思議な診察と処方の力を経験したのは、この時ばかりではありません。その後、会社の人事担当役員になった私は社用でも度々甲田先生にお目にかかるようになっていました。ある日、甲田先生と顧問契約に関することで相談があり、甲田医院にお邪魔しました。その少し前から右肩に痛みがあり、腕が上がらない状態が数日続いていたのですが、甲田先生とのお話が終わり、失礼する間際に、思いついて右肩の痛みのことを相談申し上げました。
その時、甲田先生は私の左の下腹に視線をやられただけ、触診さえなさらず「左の大腸に宿便がたまっている」とおっしゃり、メモ書きにすらすらと食事の処方を書いてくださりました。
そこには大根を擦ったもの○○グラム(ニンジンと同量)、ニンジンを擦ったもの○○グラム(通常サイズ1本)、リンゴ(一個)を擦ったもの○○グラム、一日二回、昼と夕、と書かれてありました。そして、甲田先生は「二日で治る、ハッハッハ」と笑顔でおっしゃいました。
早速その夕食から処方通りの食事、二日目は会社に材料
おろし器を持っていって昼食、さらに夕食も同様の食事を一日半行いました。翌朝驚くなかれ、右肩の痛みは嘘のように消えていました。
(ちなみに3週間ほど前のことです。また肩に痛みを感じ、2日ほど経っても改善されないので、この時のことを思い出して、大根、ニンジン、リンゴのすったものの1日2回の処方を行ったところ、1日で完治しました。)
甲田先生にはこのような摩訶不思議な診断、治療のエピソードが数多くあります。ネットで検索してみても甲田療法で救われたという無数の体験談を目にすることが出来ます。私自身のことではありませんが、私の身近な人が体験したエピソードも面白いので紹介しておきましょう。その人はKさんと言います。Kさんも舩井先生とご縁のある方で船井総研のコンサルタントとして活躍された人でした。
そのKさんから胃潰瘍が長年の持病であることを聞き、私は甲田先生のお話をし、「良ければご紹介しましょうか?」と声をかけました。Kさんは甲田先生のことはご存知で、是非お願いします、ということになり、早速甲田先生の診察を受け、甲田療法を実践されるようになりました。Kさんの処方は、クリーム食(玄米の粉をクリーム状にしたものと豆腐+白身魚)のみ、これ以外は原則ダメ、という少々厳しいものでしたが、熱心に実行、すっかり回復されました。
調子も良くなったある夏の日、出先でスイカをご馳走になる機会があったそうです。翌日が甲田先生の診察日で「甲田先生のお顔」が脳裏をかすめましたが、大好物でもあったので、一切れだけご馳走になりました。甲田先生のお顔が思い出されたのは、甲田先生から「果物は取らないように」と言われていたからです。「ずいぶん体調も良いし、一切れぐらいは良いだろう」と思った、とKさんは言われていました。
さて翌日甲田医院に診察に行ったKさんが、椅子に座るなり開口一番甲田先生から「あんたスイカ食ったな」との一言。
玄米クリームの効用
Kさんの驚いたこと、恐縮したことはそれまでなかったというのがそのエピソードです。
余談ですが、Kさんの処方にある玄米クリームが優れモノで、胃の具合が良くない時などこれで随分と調子が良くなります。ミルマシンで玄米(通常一食0.8合程度)を粉状にして、適量の水を注ぎ(水が足らなければ随時足します)、なべでかき混ぜながら温め、泥状にします。時間は数分、これに塩を好みで足し、お豆腐、梅干しがあれば最強の簡易食になります。
胃の不調だけでなく、体調不良時に状況に応じて一日2回(昼と夜)を1日、2日、3,4日、1週間とやってみればその効果が分かる筈です。
なお、玄米食の実行には、5種類以上の野菜を1日一度ジューサーやミキサーでジュースやスムージーにして頂くことも忘れないで下さい。
重ねて余談ですが、甲田医院に入院している患者さんが食事療法の苦しさからついアンパンを買い食いし、翌日の診察で甲田先生に見抜かれ、お叱りを受けることがよくあったと、甲田先生の一番弟子、二十年近く一日一杯の青汁だけで元気に過ごされている森美智代さんから聞いたことがあります。甲田医院のご近所で鍼灸院を開業されている森さんは、そんな患者さんから甲田先生に買い食いがばれないように特別な「治療」をお願いされることがあったそうです。(写真 甲田光雄先生)
甲田療法を伝える一番弟子の森美智代さん
その森さんを舩井先生に紹介し、大変喜んで頂いたこともありました。森さんをお連れしたのは前述のように甲田先生の一番弟子が森さんだったからです。
森さんは若くして難病を患い、甲田療法に出合い、そしてその大病を克服されます。また森さんはその体験を通じて不思議な能力を身に付けられました。甲田先生がお元気なころ、後継者がいらっしゃらないことを心配する私に、笑いながら「こうして体に手を置くだけで悪いところが手に取るように判る、これは教えられるものじゃないからなー」とおっしゃっていました。
森さんはお医者様ではないですが、この甲田先生の「体に触れただけで、悪いところが判る」という特殊能力を引き継がれている唯一の方です。
森さんが特別な能力を持たれていることは私自身も何度か体験しましたし、甲田先生に代わってお願いすることになった健康センターの「診察」を受けた入所者の体験談からも、確信がありました。そういうこともあって、森さんを舩井先生にお引き合わせすることにしたわけです。
森さんを舩井先生のところにお連れした折の事は、以下のリンク、舩井幸雄先生のブログに詳しく書かれています。
またこのブログでも森さんの特殊能力の私の体験談を紹介しています。
西式健康法の基本原理①「症状即療法」
さて折角の機会でもありますので、ここで主要な西式甲田療法の考え方や具体的な療法に関して、私の知るところを簡単に解説させて頂きたいと思います。
西式甲田療法の二大原理は「症状即療法」と「心身一者」にあります。中でも「症状即療法」はもっとも重要な大原則で、これは読んで字の如く、「症状はすなわち療法である」ことを意味します。この原理を西先生が発見した経緯はこのようなものでした。
幼少より病弱で微熱と下痢に悩まされていた西先生を心配されたご両親は日本中の名医を訪ね歩き、診察、治療を受けますが、一向に良くならないばかりか、匙を投げた医師から「この子は長生きできません」と言われることもあったそうです。成長して青年期を迎えられた西先生は同様の症状に悩み続けるのですが、医師が見放すなら、自分で治療法を見つけるほかないと考えるようになります。そこで古今東西の医学書や健康本を読み漁(あさ)り、少しでも納得できる療法があればそれをやってみる、ということを始められました。
しかし、どの療法を試しても一向に良くなる兆候が見えません。思いつめた西先生はやけになり、最後の方法として「医者のいうことを聞いても一向に良くならないのだから、医者のいうことと反対のことをやってみよう」と決心します。そして下痢に良くないと止められていた生水の飲用、また風邪をひきやすいから厚着にするようにと言われた指示の逆、日頃寒くとも薄着にし、熱が出たら、下げるのではなく逆に厚着にして熱を上げるようにしました。そしてそれをしばらく続けるうちに、長く続いた下痢も治まり、微熱も快癒するに至ります。
このことが症状即療法
原理を見出す機会になりました。長く苦しんだ「下痢」も「熱」も体が良くなろうとする「療法的」働きであったのですが、病気の原因が解らず、症状の改善にのみ熱心な「現代医学」の医師は、体が良くなろうとするこれらの反応を妨げることにしか治療法を見出すことが出来ませんでした。
よく考えれば「症状が療法」なのは当たり前のことです。何か体に悪いものを誤って飲用したとき、嘔吐で悪いものを体外に排出しようとします。胃から腸へと入ってしまえば、今度は下痢によってできるだけ早く体外への排出を行います。吐き気も下痢もこのように毒素、毒物を体外に排出する働きです。
熱も同様で体温が一度上がると免疫力は5倍になる、というのが免疫学の常識になっています。マラリアで高熱が続いたがん患者が寛解した(がん細胞が消える)例も報告されるのはこのためです。このブログでたびたび紹介させて頂く中村天風師も、「熱が出たら下げてはならない、お燈明を上げて神様に感謝すべし」とおっしゃっています。
同様に、伊豆で断食道場を運営されている石原結實(いしはらゆうみ)先生は「食欲不振と高熱は天下の二大名医ある」とおっしゃっています。これは食欲不振=食べないことと高熱が病気を早く治す秘訣であるという意味で、症状即療法と同義です。
万病に効果がある「朝食抜きの二食主義健康法」
この症状即療法とともに甲田先生が特に健康の秘訣として強調されていたのが、少食と朝食抜きの二食主義健康法です。甲田先生には朝食抜きを薦めるご著作が複数あります。それらの著作の副題には「朝食を抜くだけで病気の9割はよくなる」というものもあります。
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“朝食こそ三食の中でも一番大事な食事である”という現代医学や現代栄養学の常識から言えば「とんでもない暴論」のように思われる「朝食抜き」ですが、少し勉強すれば朝食抜きが優れていることは直ぐ判ります。
よく甲田先生が紹介されたのは、フランスのスーリエ医師による尿中毒素の実験です。スーリエ医師は食事の仕方で尿中毒素の量に変化があることを発見します。それによると一日一食(午後)の場合に尿中毒素は一番多く排出され、朝抜きの二食がそれに続き、一番少なかったのは朝、昼、夕の三食ではなく、朝と夕の二食のパターンであったということです。尿中毒素が多いということは体内の毒素の排出、流行りの言葉でいえば「デトックス」が盛んにおこなわれていることを意味します。
またアメリカで1200万部を超える大ベストセラーになった健康本のバイブル『フィット・フォー・ライフ』(ハービー・ダイヤモンド著)でも朝食抜きが薦められています。曰(いわ)く人間には24時間のサーカディアンリズムがあり、8時間毎に摂取(12時~20時)、吸収(20時~4時)、排せつ(4時~12時)と体の働きが変わる、排泄の時は排泄の臓器である腎臓や大腸を活発に働かせるべき時で、この時に食事をすると消化のために胃に血液が集まり、排せつの働きを阻害する、よって午前中は食事をしてはならない、というのが著者のハービー・ダイヤモンド博士の主張です。(図 サーカディアンリズム)
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「万病一元血液の汚れより生ず」という東洋医学の考え方は、すべての病気の原因は血液の汚れ、すなわち体内の毒素に依るものである、ということです。そう考えるならば、朝食抜きや断食に難病治療の効果が高いことも肯(うなず)けます。
なぜならそれらが、排泄、排毒、デトックスを促進するものであるからです。特に断食は疾病治療に大変な効果がありますが実行するのはなかなか大変です。適切な医師の指導がない場合には危険ですらあります。しかし朝食抜きの二食健康法は誰にも簡単に実行できます。ただし3食分を2食で食べるような「大食い」は逆効果で、あくまで少食が基本であると甲田先生が力説されていたことも付記しなければいけないでしょう。
基本原理②「心身一者」そして世界平和の祈り
最後に、西式健康法の「心身一者」(心と体は一つのものである)について簡単に申し述べたいと思います。
甲田先生は前述のように排泄(排毒)を重視されていました。中でも宿便が万病の元であるとして、宿便の排泄を難病治療の重要な要素とされていました。宿便とは不思議なもので、一週間も断食を続けて腸内にあったものは出尽くしたような患者がある一線を超えるとバケツ半分もの便を排出して、それ以来疾病が快癒するという例が甲田医院では日常的でした。宿便排泄はデトックスの重要な目安で甲田先生にとっては宿便退治が治療目標でもあったわけです。
「心身一者」=すなわち心と体は一つのものであるという事、心の状態が体調の良、不良と大きな関係があることにもはや説明の必要はないでしょう。
関係がある以上にそれは「不二」、分かつことの出来ないものであるというのが「心身一者」です。その意味で甲田先生が重視されたのは、体の宿便と共に心の宿便を取ることでした。
甲田先生は心の宿便を「貪(とん)瞋(じん)痴(ち)」の三毒(仏教の説く根本の煩悩の貪むさぼり、怒り、迷妄)であるとされました。そして、これを除くために甲田先生は平和のお祈りを患者さんに薦められました。
それが写真の甲田先生のお祈りです。ご直筆は私の手元にありましたが、森さんが三重県名張市に断食道場「あわあわ」を開所された折、お祝いに額装し、ピースポールと共に、寄贈させて頂きました。
(写真 甲田先生直筆の「平和の祈り」)
甲田先生のご晩年の宿願は少食、断食と世界平和のお祈りが実践できる「健康道場」の開設でしたが、森さんはこの甲田先生のご遺志も引き継がれています。
「あわあわ」では定期的に断食体験会が開催されており、以下のような体験談もネットに上げられています。ご興味あれば森鍼灸院に問い合わせください。
(2018.11月追記 ちなみに私も昨年から「あわあわ」での1週間の断食実習会で、甲田先生へのご恩返しと思い、受講者対象に2日間、6時間ほどの西式甲田療法の講話をさせて頂いています。)
心の宿便を取る世界平和の祈り
この甲田先生のお祈りは五井先生のお祈りを甲田先生のお言葉に置き換えられたものです。甲田先生は世界平和の祈りの提唱者であった五井先生を深く尊敬されており、親しい人には折に触れて、このお祈りを薦められていました。
かく言う私もその一人で、「甲田療法で命を救って頂き、平和のお祈りで魂を救って頂きました」と生前の甲田先生にお礼申し上げたことがありましたが、その時の甲田先生の嬉しそうなお顔が今でも目に浮かびます。
甲田先生は「医は仁術」を体現された方でした。検査はせず、薬も処方せず、食事法を中心とした西式甲田療法で万余の病気に苦しむ人々を救われました。
もう甲田先生はいらっしゃいませんが、前述の森さんが鍼灸師として西式甲田療法による治療に当たられていますし、先に紹介したご著作をはじめとして、甲田先生のご著作を読むことが出来ます。
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(森鍼灸院のホームページです)
甲田先生ご逝去から八年、最も合理的で卓効(たっこう)のある根本療法は西式甲田療法と世界平和の祈りであるという私の信念はますます強固になっています。
「世界平和の祈り」で「心の宿便」を取り、さらに西式甲田療法の実践で万病の原因である「血液の汚れ」(体内の毒素)を除去する事、これが病気直しの大道であると確信を持って言えます。
だから病で苦しまれている方は先ず西式甲田療法に取り組まれることをお勧めしたいのです。
本稿を閉めるにあたって、改めてお世話になった住野さん、そして甲田先生、舩井先生に改めて感謝をささげるものです。
以下 関連記事
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え
「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法
参考記事
霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
霊性心開発の方法 ④ 五井昌久先生「老子講義」より
霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
体験談①至高体験と妖怪との遭遇で知ったこと
体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い
体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと
その他 当ブログ記事一覧
もはやグローバリズムでは至高体験を説明しきれない
私が鬼門の部屋に住み、運気がガタ落ちとなり、散々な10代
を歩んだことは過去にも龍脈スパイラルオリハルコンの説明文にも記載したので
ここでは省くとしよう。
ここにそれについて記載しております。
↓
そう・・・私が初めて新築の自分の部屋ができたのは小学4年生の頃であった。
しかし、そこから人生は狂い始めた。
「なぜだ・・?」
私は悩んだ。
様々な祈祷師、気学師を訪ねてわかったことがそこが鬼門であったのだ。
それから祈祷師の霊符、御札など風水アイテムも沢山使ってきたが、
どれも期待するほどの効果もなく、
私は自分なりにずっと勉強してきた。
小学生高学年から大人になるまでずっと色々調べたり、
本を読んだり、風水改善アイテムも沢山試してきた。
そこから私が開発したものが龍脈スパイラルであった。
文字の如く龍脈を発生させる波動ツールである。
龍脈とは風水で気を発する土地であり龍穴に住むと運気は一気に上昇し、
全てが上手くいくと言われている。
そして土地をイヤシロチ化することにより、不運から遠ざけて健康、繁栄、
運気上昇が期待される。
元々地下に通っている龍脈ラインに偶然家を建てた人は運がいいだろう。
白龍のパワーの恩恵が受けられる。
逆にケガレチと言われる運気が悪くなる土地、気を吸い取ってしまう土地に家を建てたり
住んだりするともう最悪だろう・・。
私の知り合いでも危ないぐらいのケガレチに住んでた人がいたけど、
その土地に足を踏み入れただけで私は眩暈がして周りが歪んで見えた。
もう波動がグチャグチャなのである。
当然のことながらその一族は滅びてしまった・・(←ちょっと古い言い方だけどね)
前置きは長くなったが、そんなこんなで最初に開発した龍脈スパイラルは
現在オリハルコンと合わせてるものとは違い、やや大柄であった。
数個しか販売してなかったけど限定だったのですぐに完売してしまった。
だが、それだけではまだ改良が必要だと思って作られたのが
現在普及しているヴァージョンである。
これが龍脈スパイラルオリハルコン版の基本となるものである。
後半はもっと先端が長くやや細長いタイプのものを作製している。
上の画像は青と赤の龍脈スパイラルを内蔵している。
青は二種類あって水色っぽいタイプと深く濃いタイプである。
オリハルコンツールは基本は10色として出しているが、
それはチャクラに反応したり、色独自の波長、波動に影響する目的で使い分けている。
それと同時使用する時に相性がいいのを少し紹介しよう。
赤と青は組み合わせがいいので同時使用すると相乗効果も期待できる。
赤、青、緑の光の三原色についてはこちらに詳しく書かれてるので参考にしていただきたい。
まず赤龍脈スパイラルはやはりパワーが強い。パワーだけならおそらく一番強いだろう。
しかし、性格的に短気だったりキレやすい人、ヒステリーを起こしやすい人は持たない方が
いいだろう。
主には第一チャクラ(ムーラダーラ)を刺激してグラウディングを行い、弱気を強気にする
働きもある。
したがって、落ち込んでいたり、性格的におとなし過ぎたり、無気力な人、
どうも元気が出ない人などにはお勧めである。
陰から陽に切り替えたい人にもお勧めである。
それとは逆に青龍脈スパイラルは精神安定、落ち着き、瞑想、魂レベルの向上に役立つだろう。
チャクラでは第五チャクラ(ヴィシュッダ)に反応する。
赤龍脈スパイラルとは違い、鎮静の働きもあるので性格の激しい人が使用すると
それが和らぐのでお勧めである。逆に落ち込みやすい人や弱気な人はあまりお勧めできない。
この赤と青を両方使用することにより、陰陽のバランスが取れてゼロに近づけるので
所謂中性となる。
設置するなら赤は朱雀の南の方角、
青は青龍の東の方角が良い。
左の物が改良版である。優劣は付けられないがどちらも
高波動を放っている。
上の画像は新タイプと旧タイプの龍脈スパイラルである。
新タイプはやや細長スタイルとなっている。先端がやや長いので波動を放射する時には
やや強めとなっている。
旧タイプは地にどっしりと構えているので安定感はある。
ちなみに組み合わせは青龍脈スパイラルでも水色タイ
プとオレンジ龍脈スパイラル
がベターである。
オレンジ龍脈スパイラルは第二チャクラ(スバディスターナ)に反応する。
肉体的な活性化、生命力の強化、感情の豊かさなどにも効果を発揮する。
そういう意味から復活などの意味合いで太陽神ラーと称している。
「なんのために生きてるんだ?」
「生きててもつまらない・・」
と言う人は生きる喜びのようなヒントが与えられるだろう。
これも同時使用で精神的なバランス効果も期待できる。
病気になりにくくなるという説もある。
金龍脈スパイラルと銀龍脈スパイラルのコンビ。
上の画像は金龍脈スパイラルと銀龍脈スパイラルで最も相性がいいコンビである。
金色は金龍のイメージもあるが、梵天ブラフマーと称している。
それはブラフマーのオーラが黄金であるからそれをイメージしている。
これはチャクラと言うよりオーラである。
金色は金運や財運を引き寄せる色として有名だが、瞑想の時に黄金の光のイメージを
するとやはり金運系を上昇させると言う。
そして才能を開花し、独創性をより強める働きもある。
銀色は金と同じく銀龍(白金龍)のイメージがあるが、アートマン(内なる自分)のオーラが
銀色ということでそれをイメージしている。
内なる自分、内なる神こそが大元の神と繋がり同一であるという説がある。
この宇宙のあらゆる生命体は全て神の分霊(わけみたま)であり己自身である。
高度な瞑想をする時に使用するといいだろう。
純粋な魂へと変化したい人にお勧めしたい。
金と銀の龍脈スパイラルを同時使用することで無限大のメビウスの輪が見えたという人もいる。
そう、メビウスの輪は「8」の字であり、8という数字は「無限の象徴」とも言われている。
無限大の可能性・・。
ちなみに龍も8という数字と大きく関係があるので龍が好きな人にも
お勧めしたい。
紫龍脈スパイラル。霊性豊かな高貴な色である。
上の画像は紫龍脈スパイラルである。
これは阿弥陀如来の乗り物である紫雲をイメージして
そう称している。
私が極楽浄土と繋がっていると言われる場所へ行くと西の彼方に
紫の色をした龍雲がよく現れる。
この形からすれば紫龍でもあるので納得できる。
この紫色は第六チャクラ(アジナー)に反応する。所謂第三の眼である。
効能としては想像力を豊かにしてそれを現実化することをサポートする。
そして霊性を豊かにし、発想やひらめきなどにも効果を発揮する。
組み合わせについては特に気にしなくていいのだが、複数使い分けることもベターであろう。
私個人のお勧めは紫色のパワーストーン(特にアメジストやスギライト)を身に付けていると
相乗効果をもたらす。
瞑想の際に第三の眼(眉間あたり)を意識すると効果的である。
この紫色はあらゆるあらゆる可能性を秘めているので、
色々と自由に応用するのもベターである。
緑龍脈スパイラルオリハルコン。神様の色である。
上の画像は緑龍脈スパイラルである。
これも青と同様で若干色に違いがあり、ライトグリーンタイプと
濃い深い緑の2タイプがある。
緑色は神様の色とも言われ、私個人ではお気に入りである。
しかも結構人気があり、品薄になることもしばしば
第四チャクラ(アナハタ)に反応し、癒しの波動(ヒーリング効果)を放つと共に、許し、愛情、思いやり、ハートのキャパシティーを
増加などに役立つ。
心身のバランスを取り、常に安定した状態を保ちたい人にお勧めだ。
これも個人的な意見だが緑色のパワーストーン(エメラルド、アベンチュリン、翡翠など)を身に付けて
使用すると相乗効果がもたらされる。
今許せない人がいる。本当は自分も他人も同じだということを気付きたい方へ。
これも特に組み合わせにこだわりはないが、使い分けする方法もいいだろう。
設置の場合は玄武の北が良い。北は黒でもいいのだが、
現在普及してないので微妙。
黄龍脈スパイラルオリハルコンと桃龍脈スパイラルオリハルコン。
妙にマッチするコンビネーション。
上の画像は黄龍脈スパイラルと桃龍脈スパイラルである。
まず黄色であるが、これは第三チャクラ(ソーラープレクサス)に反応する。
黄色は風水において金運や財運関係に効果的なので金色と少々似た効果もあるのだが、
この黄色につい
は七福神の布袋さんのイメージがでてきたのでそう称している。
財布やカーテンなど黄色にすると運が良くなるとか金運が上がると言われるが、
その他にも自身をつけたり笑いを呼び込んだり色々な効果が期待できる。
桃色についてはなぜか第一チャクラに反応した。
これは私の体験であるが、クンダリーニの上昇に有効だと考えられる。
普通はムーラダーラチャクラ(第一チャクラ)は赤色が一般的だが、
尾骶骨あたりにこの桃色(ピンク)龍脈スパイラルを設置してみると
エネルギーがスムーズに背筋を通って上昇していくことがわかった。
俗にいう性エネルギーというやつの活性化に優れていると判断した。
なかなかの優れものである。
名称はガヤトリーとしているが、これはインドの女神でもあるが、
七福神の弁財天とも同一視されている。
ガヤトリーマントラはとても強力で運気を上げてくれるので
この桃龍脈スパイラルオリハルコンと併用して唱えるのもベターだ。
桃色(ピンク)は女性なら子宮にも反応するようなので、そこを活性化すると
女性らしさ、魅力を増大させ所謂女子力アップに繋がるだろう。
さて、この黄色と桃色の龍脈スパイラルオリハルコンの組み合わせだが、
これらを同時使用することによって、強力に邪気払いもできるのである。
例えば他者からの念、邪気、嫉妬などのネガティブなエネルギーから守ってもらえる。
それとすでにそれらのマイナスエネルギーが体に入っていた場合は除去する働きもある。
白龍脈スパイラルオリハルコン。純粋無垢ピュアな白である。
上の画像は白龍脈スパイラルである。
これは白蛇(白龍)様をイメージして作られた。
白蛇様は神様の使いとされ、滅多に見ることができず、見た者は幸運をもたらすとも
言われている。私はそういう願いも込めて作製している。
白色は第七チャクラ(サハスララ)に反応する。
これは未知なる力との繋がり、霊性を高め、最も純粋な魂へ近づける。
白色は純粋無垢で最もピュアな色であり、光の三原色から発する全ての光を
重ねると発生する最も強力で素晴らしいパワーがあるとされている。
このツールを使用して至高体験するために瞑想に使用している人もいる。
イメージとしては白い光を全身から放射する。
そのイメージが強くできるようになれば自分が一体何者なのか
悟れるかもしれない・・・。
設置の場合は西がベター。このオリハルコンは白虎というわけではないが
効果は十分期待できる。
黒龍脈スパイラルである。これは現在オリハルコン版へと仕上がっているが
封印している。
この黒龍脈スパイラルは現在形としてはオリハルコン版に仕上がっているが、
封印している。
イメージとしては暗黒の魔神マハーカーラでシヴァ神でありカーリー神である。
日本では七福神の大黒様と同一視されている。
黒はある意味未知の領域であり、これはまだ私自身が使用してないので
表には出せない。
もしコンビネーションを組むなら白龍脈スパイラルだろう。
だが、この黒龍脈スパイラルは持ち主次第で正にも邪にもなるので慎重にしなければ
ならない。
内部にはここでは公開できないが陰と陽のバランスを保つためにある鉱物を2種
加えている。
なので暴走することはまずないだろうけど、今はまだ時期がきてないので
ひとまず波動増幅装置にて寝かせてある。
オリハルコン版になる前の龍脈スパイラル。
すべてはここから始まった・・・。
上の画像は私が一番最初に開発したプロトタイプである。
大きさは確か縦5センチぐらいはあったかなぁ・・・。ちょっとうろ覚えであるが、
現在出しているオリハルコン版のようにコンパクトではなかった。
しかし、オリハルコンを加えることによりパワーは強化され、さらに
他の物質も組み込むことにより、さらに洗練されたエネルギーへと進化した。
私が作製しているインドヒマラヤ直伝の祈祷(プラス独自のホーリープージャ)実施および波動増幅装置にて超強力な波動を封入している超波動ブレスレットや宇宙エネルギーツール(オリハルコン)および波動入魂した霊符ならこちら!
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