俺があんまり見つめるから、その人は戸惑うように襟元に手をやって視線を外した。
ああ、いけない。変なやつだと思われる…
でも見ていたいんだ。
胸の鼓動が速打ちを始めているのに気がついて、飲み込んだ息をやっと吐き出した。
「あの…… 」
「お父ちゃま!もう帰るー」
「うん? そう…?」
えっ? お父ちゃま? さっきはお兄ちゃまって……
「お父ちゃま、だっこー」
「ふふ。おいで」
その人は屈んで手を伸ばし、同じく手を伸ばした女の子を抱き上げてよしよしと背中を叩いた。
女の子はその人の肩に抱きつき頬を寄せて甘え、早く帰ると急かしだす。
それではと会釈をしてその人は来た方へと歩き去っていった。
その後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
お父ちゃまと呼ばれて否定しなかった。
お兄ちゃまと聞こえたのは気のせいだったのか?
夢に見るほど気になっていた声の主は、想像だに出来なかった何とも言えない雰囲気を放っていた。
もっと知りたい。
きっとそのうち自己紹介をして、友達になって、そして……
そして……
すっかり暗くなった帰り道を行きながら、さっき見たジュンの顔や、表情、聞いた声なんかを思いながら俺はじんわりと広がる真冬の寒い朝に飲む味噌汁の感覚を思い出していた。
その晩の夢にジュンが出てきた。
もう姫ではない、出会った時のジュンだ。
柔らかい物腰に穏やかな微笑み。
俺はジュンの膝枕で本を読んでもらっていた。
あの声が心地よく耳をくすぐる。
もっと聞かせて…
それから俺に笑いかけてよ…
幸せな微睡みの中、ゆっくり目が覚める。
なんだかなぁ。なんであんな夢…
ファンかよ…
今思えば、かぐや姫だった頃から夢の中のジュンは白狐だったな。
俺が白狐だから自分と同じにしたかったのかなあ?
その日の仕事帰り、実家に立ち寄って弟の顔を見てみた。
まあ、かわいいな。
「だっこさせて」
昨日のジュンみたいに弟をだっこして背中をポンポンと叩いてみる。
「どうしたの、兄者?」
「うん?まあ、たまにはいいだろ?」
「んー。ポンポン気持ちいい!」
「そっか。いいよな… 」
そこへ母さんが来て、珍しい物でも見たような顔をして眉をひそめた。
「あらオウセイ、来てたの」
「はい。忘れられないうちに顔を見せとこうと思って」
「ふふ。家庭教師はどうなのです?きちんとやれてるのですか?」
「まあ、頑張ってます。この前は帝様の書庫倉へ入ることが出来て新たな勉強も出来ましたし、高官の方とお会いして政についての意見を聞けたりしました」
「ああそう。相変わらずなのですね。それはよかった」
よかったと言うわりにはよかった顔をしてないけど。
幼い頃木登りして落ちた俺を、よくやったと誉めるような母親だからな。
名家の出のわりには、出世や名誉に興味のない人だ。
「つかぬことを聞きますが、俺が子供の頃、読み聞かせなんかしてもらっていたでしょうか?」
「読み聞かせ? うんと小さい時にはしましたけど、あなたはませてた子供でしたからね、すぐに自分で読むようになって。手のかからない子でしたよ」
「そうですか… 」
読み聞かせ自体に思い入れがある訳じゃないよな、やっぱ。
単にあの声に惹かれてるのか……
「なんです? にやけて。思い出し笑いなんてするのね、あなたも」
「えっ? いや、別に」
「いいことでもあったの?」
「なんでもないです。じゃあ俺は帰ります」
いやあ、襖越しに聞いて以来、とある人の声のファンになりまして、夢にも見てるくらいで、これからどうやって親睦を深めようか考えているところです。
なんてとてもじゃないが言えない俺はすぐさま退散した。
屋敷への帰り道、足は自然と蓮の池庭園に向いていた。
随分と遠回りだけど、いいじゃないか。
自分に言い訳をしながら庭園の門をくぐる。
池の側へ行って鴨が泳ぐのを見つめていた。
いや、ここじゃなくてお茶屋に行こうよ。
でもさあ、行ってなんて言ったらいい?
そうだよなあ。なんて言えば警戒されずに親しくなれるだろう。
逡巡していると、ふと視線を感じた。
感じる方へ視線をやると昨日の女の子が男の子と一緒に紙風船を手にしてこっちへとやって来た。
「昨日の人だね」
「そうだね。こんにちは」
「こんにちは。ねえ、これ上手く膨らまないの。やって?」
差し出す紙風船を受け取り、ふうと吹いて膨らませた。
女の子は嬉しそうに受け取り、こっちもと言って男の子の風船も差し出した。
それも膨らませると、少し破れているところがあるのに気づく。
その破れ目を見せると女の子はがっかりした。
「お兄ちゃまに直してもらったら?」
「うん… でも不器用さんだから出来るかなぁー」
「お兄ちゃまは不
用さんなの?」
「違うよ、お父ちゃまだよ」
「そう? よかったら俺が直してあげようか」
「ほんと? 出来る?」
「出来るよ。ね、ほんとはお兄ちゃまだね?」
「んー? えと… 秘密に出来る?」
「もちろん」
「あのね、お兄ちゃまはすごくもてるの。女の人にも男の人にも。でもねお兄ちゃまはどんな申し出も、お断りするの。だからね、お兄ちゃまを好きになりそうな人がいたらアセビがお父ちゃまって言って、虫よけしてあげるの」
「な、なるほど… 虫よけか… 」
「だって番頭さんが、虫よけだねって言ったのよー」
「俺は、お兄ちゃまを好きになりそうだった?」
「だって、ぽーっとしてたよ」
「ああ、そうだったかな…? でもね、俺はお兄ちゃまとお友達になりたいだけだから大丈夫だよ」
「そうなの?ならいいよ。今度一緒に遊んであげるー」
「はは。ありがとう」
俺は妖術で破れたところを塞ぎ、男の子に渡した。
男の子は嬉しそうに手のひらで下から上に叩いた。
「クヌギ、もっと優しく叩かないとまた破れるよ!」
「うん!」
二人は何回か風船を叩くと俺の方を見てありがとうと言った。
すっかり夕方になっていた。
風船もそのうち見えづらくなってくるから、そろそろ帰ろうと女の子が言い出す。
男の子はまだ遊び足りないみたいだ。
「今日は、お兄ちゃまは?」
「おうちにいるよー」
そう言って風船を俺の方へ叩く。
俺はそれを女の子へ優しく叩き返した。
「そうなんだ。この時間はいつもおうちにいるのかな?」
「うんー? たぶんー」
「そっか。お休みは?何曜日?」
「日曜日ー。お兄ちゃん上手いねー」
「ありがとー。お休みはなにしてるの?」
「えー、いろいろー。もっと高く上げてぇ!」
その要望に俺は紙風船をこっそり妖術の風で操って、高く上げて女の子と男の子に交互に落としてやった。
二人は夢中になって風船を追いかけた。
少しして妖術の風を解いて自然にまかせる。
風船は二人の間にふわふわと落ちてきた。
男の子がそれを掴む。
遊び疲れて満足そうだ。
「もうすぐ暗くなるから帰らなきゃ。お兄ちゃまが探しに来ちゃう」
「あ、ほんと? なら帰らなきゃね… 」
俺がそう言うと、怪しむようにじっと俺の顔を見てきた。
「ほんとにお兄ちゃまのこと、お友達でいいの?」
「そうだよ…?」
「ふーん。だったらいいけど」
え? 俺いまどんな顔したんだ?
「なんで?」
女の子は神妙な顔をして言った。
「だって、お兄ちゃまは、誰のことも好きにならないから」